カテゴリー「■読書の愉しみ」の記事

2009年6月 6日 (土)

ヴァチカンの記憶(ネタばれ注意)「天使と悪魔」

Photo_2 20世紀が終わろうとしていた。2000年12月31日、お気楽夫婦はローマにいた。そして、当時のローマ教皇ヨハネ・パウロⅡ世の法話を聴いていた。そう、2人は経験なカトリック・・・ではない。年末からパリ、ニースと旅した最終目的地がローマ。21世紀の始まりを迎えるに相応しい場所はどこだろうかと考え、ヴァチカンを選んだのだ。ところが、前日から体調不良で寝込んでしまった私。食欲はなく、きちんとした食事は取れない。ホテルのベッドに入ったまま妻が買ってくるフルーツを食べる。それだけが唯一の栄養源。20世紀最後の日をうとうととベッドで過ごし、21世紀のはじまりをベッドの上で迎えた。ヴァチカンに行くことも叶わなかった。妻はベッドの隣で本を読み、読み終えるとテレビを視ていた・・・らしい。そこでずっと流れていた放送が教皇の姿と、サン・ピエトロ広場に集まった群衆の映像だった・・・らしい。(なにしろ私はずっと夢の中だった)

Photo_3 2009年6月。10年近く経って、ようやくそのヴァチカンにきちんと対面することができた。ひとつはダン・ブラウンの小説『天使と悪魔』というミステリで。そしてもうひとつはトム・ハンクス演じるハーヴァード大学の宗教象徴学者ロバート・ラングドン教授が活躍する映画『天使と悪魔』の映像で。ところで、映画では『ダ・ヴィンチ・コード』の続編と喧伝されいるけれど、続編では決してない。『天使と悪魔』がシリーズ第1作。主人公は同じでも物語に連続性はない。『ダ・ヴィンチ・コード』がレオナルド・ダ・ヴィンチの名画に隠された謎を追うストーリーであったのに対し、『天使と悪魔』はカトリック教会の総本山、ヴァチカンの歴史と秘密を紐解く物語。ガリレオ・ガリレイとヴァチカン、そして現代まで続く科学と宗教の対立がキーワード。わずか1日の内に起きたできごととは思えないほど、濃密でスピード感溢れる展開。一気に読んでしまう面白さ。

Photo_4 して映画と小説ではかなり内容が違う。映画のエンディングロールでも、Based upon 「Angels & Deamons」 DAN BROWN と記されていた。小説での主要登場人物の1人は映画では全く登場しないし、セルン研究所でのヴィットリアの専門分野も違うし、ある重要な登場人物との関係も違う。ラングドンもラストのあるシーンに絡まない。そして何よりも暗号の解き方が小説と映画ではかなり違う。さらには映画では時間の関係で暗号の解読が速い。おいっ!速すぎないか!と突っ込みを入れたくなる。小説は文庫本で上中下3巻からなる長編だし、映画は154分の長尺とは言え詳細まで忠実に再現できない。だから映画は楽しめないかというと、そんなことは全くない。小説とは違う楽しみ方がある。

Photo_5 画『ダ・ヴィンチ・コード』がパリとロンドンの観光名所をカメラで辿ったように、『天使と悪魔』はローマとヴァチカンを巡る。体調のせいで観て回れなかったローマの名所旧跡を、ヴァチカンのサン・ピエトロ広場を、システィナ礼拝堂を観ることができた。それどころか、実際にヴァチカンを訪ねても観られなかった裏の顔をたっぷり観させてもらった。「そうかぁ、こんなとこだったんだぁ」映画を観終わった妻がナチュラルな嫌みをちょっと含んだ発言。えぇ、すいません。私のせいです。本来の体調だったら、あぁっ!ほらほら、あそこだぁ、行ったよね!という感想なのだろう。(妻はそんな大げさなリアクションは取らないけれど)でも、モノは考えようだ。次にイタリアを訪れた際に、きっと新鮮に語り合うのだ。あぁ、ここだ。小説では死んでしまった4人目の教皇候補者が映画ではラングドンに助けられた噴水は・・・などと。(いくつかネタばれ失礼♪)

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2009年4月25日 (土)

職業に貴賤あり「おくりびと」「あの日にドライブ」

Photo_2が逝って2年近く。ある春の夜、予想外の瞬間に母の存在を感じることができた。母を見舞った2年前の春、病院の窓から眺めた故郷の山々があった。山麓近くまで雪を残す白き月の山。伸びやかな裾野を広げる出羽富士。月山と鳥海山。実に神々しく、穏やかで、美しかった。予感めいたものを感じ、家族揃って特別養護施設の母を訪ねた初夏の日も、庄内平野を見守るように月山が、鳥海山が遠く霞んでいた。そして、母を見送った暑い夏にも、忌中が明けた初秋にも、その美しい姿でお気楽夫婦を迎えてくれた。母が好きだった故郷の山々。それ以来、ふたつの山は母の気配を感じさせてくれる存在になった。そして、スクリーンの中でその山々と対面した。音楽の道を断たれ、故郷に戻った主人公(本木雅弘)。独り河原の土手でチェロを弾くモッくんの背景に現れる鳥海山。熱いものが溢れるのを止められなかった。・・・遅ればせながら「おくりびと」を観た。

Photo い映画だった。故郷の風景が現れる高揚感を差し引いても、しみじみと良い映画だった。本木雅弘はもちろん、山崎努、笹野高史をはじめとした出演者が素晴らしかった。それに期待していなかった広末涼子の演技も。ただ夢破れた夫に寄り添う明るく強い妻としてだけではなく、夫が新しく選んだ納棺師という職業に対する意識の変化が何よりも印象的だった。事実を知った時には「穢らわしい、触らないで」と叫んだ納棺師という職業に対する気持が、大切な人を見送る清々しい夫の姿を見守った後に変わり始め、幼い頃に別れた夫の父を見送ってもらおうとした彼女が「夫の職業は納棺師なんです」と誇らしげに言った台詞で涙が溢れた。幸せな涙だった。職業には貴賤がある。それは、世の中にあるのではなく、人の心の中にある。絶対的な職業に貴賤があるのではなく、人の仕事に対する姿勢によって生まれる。そんなことを思わせるシーンだった。

Photo_3 日後、偶然手に取った本があった。萩原浩『あの日にドライブ』。新刊(但し文庫本)が出ると中身を見ずに買うことにしている好きな作家の1人だ。物語は銀行に勤める中間管理職である主人公が一度だけ上司に反抗し、突発的に会社を辞め、なかなか再就職できないでいる間、ふと目に付いた求人広告の「週3日勤務」という条件に惹かれて応募したタクシー運転手として働く物語。ところが現実は厳しく、辛い。前編の展開は読むのを止めようかと思う程。エリートサラリーマンだった銀行時代の逸話も、タクシードライバーとして週3日だけ(ただし24時間勤務で)働く日々も、痛々しくせつない。そしてかつての自尊心を持ち続け、ふたつの職業の裏と表、光と陰との間で揺れ動く。今の自分を仮の姿と思い、過去の記憶に逃避する。

生のどの地点からやり直したいか。人生のいろんな岐路、そのいずれかを選んだためにある現在。あの日に戻って違う選択をしていたら・・・。後半のスピードアップした展開で救われ、最後はほのぼのと、すっきりとさせられる。この物語の中でも職業の貴賤について語られる。貴賤というよりは序列。それも職業というよりは会社かもしれない。しかし、職業に貴賤があると決めるのは世間ではなく、自分の心の中にある。そんなメッセージは「おくりびと」と同様。それも、そんなきれいごとだけではないよ、という味付けも込めて。自分の仕事に対して、人生に対して、生き方に対して、誇りを持っている人はどれだけいるのだろう。その価値観は、経済的なものだろうか。社会的な成功だろうか。それとも・・・。自身の価値観について改めて考えさせられるふたつの物語だった。

は過去に戻ってやり直したいことはないなぁ。今までもこれからも幸運な星の下で楽しい人生を送るのさっ♪」妻の価値観、人生観は判りやすく、お気楽で、羨ましい。

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2009年3月22日 (日)

どちらが?どちらも!「石田衣良と奥田英朗」

Photo_4みはじめてしばらくは鼻に付いた。一人称で語る「ぼく」の語り口が気取り過ぎて、過去形で語り続ける物語の「今」が待ちきれなくて、じれったくて。けれど大好きな作家だから、きっと今に、もうすぐ、と思いつつ読み進めた。なぜこれ程「ぼく」に感情移入できないんだろう。その理由が分かった。美しく、賢く、育ちも性格も良く、端から見たら「ぼく」にはもったいない、せっかく付き合い始めた大学のクラスメイトを裏切り、人生をかけて愛してしまったのが、「ぼく」ですら“特別に目を引くほどかわいくもなかった。なによりも性格に問題があったのだ”と思い返している女の子、美丘だったからだ。それはまるで、せっかく藤原紀香と結婚できたのに、浮気が原因で離婚しそうな陣内智則のようなもの。そこで、自分の視点が「ぼく」のものではなく、ミーハーな大衆の視点だと気が付いた。

40 からこそ、そこから先を読み進めると、石田衣良の術中にはまる。お涙頂戴的な設定をなぜ石田衣良もが、とも思うのだけれど。それでも。袖にした女性とも上手な和解をしてくれる。この辺りですっかり『美丘』のファンになり、「ぼく」の未来を心配してしまう。さすがのストーリー・テーラー。脱帽だ。立て続けに読んだ『40 翼ふたたび』にしても同様だ。同じ作家と思えない程、こちらの物語は肩の力が抜けている。デビュー作であり、出世作でもある『IWGP』シリーズの中年男版とも言えるし、解説では実際にそう書かれてもいる。しかし、この“現代”を切り取り、実際の出来事を想起させるようなストーリーが出て来ても、きっちりと石田衣良の物語にしているのが凄い。マスコミに良く顔を出す彼の、してやったりの笑顔が見えてくる。ちっ、また負けてしまったぜ・・・って勝負じゃないし、勝とうとは思ってもいないのだけれど。ちょっと悔しい。

Photo_5 品ごとに肩に入る力が違っているのは奥田英朗も同様。もしかしたら、別の人間が書いているんじゃないかと思う程。『空中ブランコ』で直木賞を獲ったものの、精神科医の伊良部を主人公としたシリーズは破天荒。面白過ぎて、良いのこれで?という作品群。かと思うと、『最悪』『邪魔』などの重いテーマを丹念に書き上げた陰鬱な作品もあれば、『サウスバウンド』のような明るく爽快なストーリーも書き分ける。それにエッセイを書かせれば、下手じゃん!と突っ込んでしまいたくなる『港町食堂』やら『泳いで帰れ』とかのダレダレ系の作品もある。どこに奥田英朗の実体があるんだ!と思っていた処に『ガール』だ。参った。実に巧い。女性の視点から書いた、などというレベルではない。女性が書いたというディティール。文庫本が発売され、かなり売れているらしいが、良く分かる。

世代の女性からは「何贅沢なこと言ってるのよ!」と思われながら、ちょっと羨ましいとも思わせる設定でもある。いろんな意味で“ガール”心をくすぐるのだと思う。この本を読んでいる女性が「あるある!」と言っているのを、決して君にはないよ!と端から見たら突っ込みたくなる感じ。この辺り、松任谷由実や柴門ふみに通じるものがある。(なのに、書いているのは男性なのだ)きっと多くの女性が「奥田英朗の『ガール』って面白かったよぉ♪」とか、同僚(女性)に薦めたくなってしまう本なのだ。

ォーカルを聞いた瞬間に、「あ、桑田だ。サザンだ」とか、「あぁ相変わらず下手だなぁ、ユーミンだね」とか分かってこそビッグネーム。とすると、石田衣良は既にどんな作品を読んでも、「あぁ石田衣良だな」と分かってしまうビッグネームなのか。それとも、「あぁ、これも奥田英朗だったんだ、へぇ〜っ!」と思わせる奥田英朗が巧いのか。そう言えば、ポンちゃんと山田詠美のどちらの作風も山田詠美風味。とすると、作家個人の情報が多いと作品の底に通じるものを感じ取れるのか。とは言え、いずれも好きな作家たち。彼らの新刊はいつも待ち遠しく、読むのが楽しみだ。・・・そんなブログの記事を、毎週末、私は書きたい。

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2009年1月25日 (日)

さよならバニー『PLAYBOY』終刊

Playboy誌文化が大きな転換期を迎えている。情報誌も、女性誌も、マンガ誌も、総合誌も、それぞれがたいへんな局面。老舗雑誌の休刊が相次いでいる昨今。主な休刊だけで、『読売ウィークリー』『月刊現代』『ロードショー』『主婦の友』『広告批評』『論座』『GRACE』『Lmagazine』などなど。その背景のひとつとして活字離れが叫ばれるけれど、ネットやケータイも広義の活字文化ではある。同様に日本語の乱れを指摘する声もあるけれど、ことばは時代と共に変わるもの。当然メディアの形態も変わって行く。けれど、この雑誌の終刊(一般的には“休刊”ということが多く、復刊することを示唆するのだけれど、彼らは終刊と明記している)は、大げさに言えばひとつの時代の終わりを感じてしまう。

メリカ文化に対する“憧れ”の時代の終わり。ベトナム戦争が終結した年に創刊された日本版PLAYBOY。アメリカはまだまだ遠い国だった。政治、経済、文化、スポーツ、あらゆる面で圧倒的なリーダーだった。日本ではもちろんヘアー解禁など想像もできない時代、プレイメイト(PLAYBOYにグラビアが掲載される女性たちをそう呼ぶ)たちは、遠い異境の女性にしか見えなかった。アメリカは憧れの国だった。そのアメリカは、日本版創刊から33年経った今、身近な国になった。アメリカがくしゃみをすれば、日本が風邪をひくと揶揄されるように、(日本からすれば)深い結びつきになった。しかし、アメリカの世界における相対的地位は低下した。そしてオバマ新政権の下、世界のリーダーとしての役割を“もう一度”果たそうともがいている。

Playboy_2 るいは、大人の雑誌文化の終わり。PLAYBOYには、硬派と軟派と、性と生と、カルチャーとサブカルチャーと、文学とノンフィクションと、そんな単なる対立項ではない雑誌文化が矛盾なく、実に魅力的に誌面に溢れていた。グラビア、ジャーナリズム、紀行、ロングインタビュー、対談、そしてパーティジョーク。パソコンやインターネットなど想像もできなかった時代、雑誌の情報は隅々まで読み尽くすものだった。(ちょうど『ぴあ』の“はみだしYouとPia”が人気だったりしたように)斬新な誌面レイアウトとデザイン、クオリティの高い写真、タイポグラフィ。切り抜かれた誌面を開くと隠されたビジュアルが現れる、思わずにやっとさせられる仕掛けなど。それらは、動画や音声など雑誌が実現できなかった表現形態を伴にして、サイトの世界に引き継がれた。

久保存版」と記された白い表紙の終刊号。思わず手に取り迷わず購入。30周年記念号の企画以来、久々で最後の購入。そう言えば、日本版創刊からしばらくは、このバニーマークだけが表紙を飾った。白地、黒地、金、ブルーなどの表紙にバニーが誇らしく記されていた。PLAYBOYが休刊することを妻に零すと「あれ?でも、これ最終じゃないみたいよ。“終刊前号”って表紙に書いてあるよ」やられた!確かに、永久保存版の下にも小さく「前編」とある。最後までやられっぱなしだった。そして、もちろん騙された(訳でもないけれど)ことすら嬉しく思いつつ、翌月の「終刊号」も迷わず買った。2冊とも実に読み応えのある内容だった。時代を振り返るアルバムのような、33年間のPLAYBOY文化のダイジェスト版だった。さよなら!PLAYBOY!さよなら!バニー!

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2009年1月24日 (土)

風邪にご用心『その日のまえに』重松清

Photo西高東低の気圧配置。冬の空気は乾燥している。そんな時に気をつけるべきは、火事と風邪。年末からの晴天続きですっかり乾燥しきった年始に火事が多かった。ちょっとした不注意からあっという間に火が回る。ある朝、起き出して窓の外を眺めると黒煙が上がっていた。火事のようだ。慌てて妻を起こす。幸いにも火はすぐに消し止められたらしく、高層マンションを包むように立ち昇った恐ろしいほどの煙はあっという間に収まった。やれやれ。先日も近くで大きな火事で亡くなった方が出たばかり。火の元の注意は細心に。外出しようと鍵を閉めた後に「あれ?電気ストーブ消したっけ?」と部屋に戻る妻を温かく見守る日々。

うひとつ気を付けるべき風邪。今年は風邪を引かないなぁと油断していた頃に喉が痛み出した。私の風邪は喉から来る“銀のベンザ”タイプ。加えて今年の症状は鼻水ずるずる。そんな症状の中、出勤前に病院に行き、処方された薬をもらい、通勤の途中で重松清『その日のまえに』を読み始めた。悪寒。指先が冷たい。けれど手袋をしたままでは上手くページがめくれない。仕方なく手袋を外し、かじかむ手をこすりながらページをめくる。4つの独立した短編、3つに分かれた短編「その日のまえに」「その日」「その日のあとで」という7つのショートストーリー。それぞれに共通するのは、“その日”。言い換えると、最期の日。それぞれの物語に登場する、幼かった頃の決して仲は良くなかった友人が、かつての教え子が、働き盛りの主人公が、母と息子のふたりの暮らしを守る大黒柱の母が、そして最愛の妻が、“その日”を迎える。

Photo_2 み始めてすぐに、しまった!と思った。風邪で弱った身体。ヤワになっている気持。そして何より登場する主人公たちが、同じ年代であること。物語に感情移入してしまう環境は充分に整っていた。元々、重松清自身が自分と近い世代ということもあり、彼の描く物語には身につまされるものが多かった。しかし、多くは子供のいじめの問題、親と子の関係など、子供がおらず親の面倒を弟に託す困った長男としては、さっと身をかわすことができるものだった。しかし、今回は不意打ちだった。思ったよりずっと早くやって来てしまった“病”によって“その日”を迎えてしまう登場人物たちが、私と同年代なのだ。働き盛りの主人公が告知を受けた日に向かう小学生時代に住んだ街。そこで出会ったかつての友人・・・そんな話まではまだごまかせた。私は風邪を引いているだけなのですという風を装って鼻をかんだ。目もちょっと赤いのは、熱もあるせいで・・・。

ころが、「その日のまえに」の連作を読み始め、偽装は諦めざるを得ない状態になった。止まらないのだ。堪えても、堪えても。これはいかん。良い大人が電車の中で嗚咽を漏らしてしまっては。すぐに読むのを止め、自宅まで封印。そして風邪でぼぉ〜っとした状態で、その日の業務を終え、帰宅。一気に読もうとした。しかし、読んでいる途中で止まらない。涙。もう風邪のせいなのか、涙のせいなのか、訳の分からない鼻水がずるずる。告知を受けた妻、夫婦でその日を迎えるまでの日々。そして、その日。さらにはその後を綴る身近な日々と心情。ティッシュでは追いつかなくなり、洗面所で顔を洗う。ふぅ〜っ。数年来、私自身も“その日”に向かう準備をしていた。母の病と死を経験し、父の老いを実感し、“勤め人”としての終わりを意識した時に、何を優先すべきかを意識し始めた。自分が不慮の事故などで突然“その日”を迎えてしまっても大丈夫かと自問する。よし、これだったら大丈夫と確認する。そのための、いろいろな準備。でも、逆に妻がとは考えもしなかった。だからこそ、そんな私にこの物語は辛かった。

も、“その日”が分かった方が幸せかもね」そうだね。残された時間が分かった方ができることは多いかもね。この本、読んでみる?「うぅ〜ん、良いや。乾いてなさそうだし。それに、風邪治ったら印象変わるかもよ」むむ、確かに。あざといとは言わないまでも、“泣かせ”はある。しかし、読後感はすっきりと爽やか。物語には救いがあり、登場人物たちは明るく、前に進もうとする力がある。もし妻が先に逝くようなことがあったら、この物語を読み返してみよう。「大丈夫!ぜったいないから」・・・まぁ、その方が幸せ。

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2008年10月11日 (土)

成すべき人生、成さざるべき人生『お腹召しませ』浅田次郎

Photo の声は頭の上から降ってきた。夜遅く、仕事帰りの私は途中駅からシートの一番端に座ることができたので、一心に文庫本を読んでいた。「何もこんなとこから乗らなくてもいいじゃないか」「仕方ないじゃない、もう電車が出ちゃうんだから」酔っぱらった夫と、それをアヤす妻の会話のようだ。ちらっと2人の姿を一瞥した。仕事を引退したぐらいの年齢に見える老夫婦。すぐ近くに立っているため2人の会話が聞こえて来る。「人の顔見やがって、失礼だな」「何言ってるの、よしなさい。どうしたの」「何か気にくわないらしい」何かトラブルが起きたのか。気にはなるが、読みかけの文庫本の続きの方が気になる。「失礼じゃないか。だいたい役人は・・・」ふぅん、何か嫌なことがあったのか。「俺は見れば分かるんだ。会社で仕事できないんだ。こんなやつは、きっと頭悪いんだ」そうかぁ、絡んでいる相手は、仕事ができそうもなく、頭も悪そうなヤツなんだ。やれやれ。

う止めなさいよ」冷静にそう言った女が、私の座るシートのすぐ横に身体を寄せる。「何で庇うんだ」男が毒づく。・・・え?え!わ、私ですか?そこで初めて今までのことばが私に向けられたものだと気付く。「せっかく楽しくお酒飲んでいたのに。こんなことだったらタクシーで帰れば良かった」女が零す。何か身につまされる。自分が守ってきたプライドが失われてしまったことを、嘲笑われるのが怖いのか。自分を何かで護りたいのか。私の一瞥は男の何を壊してしまったのだろう。2人の声は決して大きくはなく、私に聞こえるか聞こえないかの会話。周囲に注目される状況でもない。中途半端でもあり、理不尽でもある。それにしても物語の続きが気になる。読書に集中したいのに、相変わらず2人から発せられる雑音は続いている。降車駅に到着。立ち上がり、男を今度は凝視する。男が私を睨む。うぅむ、こんな顔か。年齢を重ねると、人格や品性が顔にはっきりと表れる。あぁ、こんな風に歳をとりたくないなぁ。そんな風貌の男だった。

田次郎の『お腹召しませ』は時代物の短編集だ。江戸時代の武士の話を描きながら、短編の前後に浅田自身の語りや解説が入る構成。そこで語られるのは、現代のサラリーマン、夫婦、男と女など。そのふたつの時代の近似に気付かされる。遠い時代と思っていた江戸が急に身近に感じられる。魅力あるストーリーと登場人物。そして快哉を叫びたくなるラスト。堂々たる浅田節だ。それにしても、浅田の描く江戸の人々は、品がある。鯔背な男に、粋な女・・・だけではなく、傍からはみっともなく見えるぐらいに対面を保たねばならない武士や、家を守るべきという絶対的価値観に疑問を抱いてしまう市井の人としての武士。現代社会に通じる、などというありふれた表現とは違う。江戸の時代も、現代も、人間は悩み、苦しみ、それでもなんとか精一杯生きてきたのだ。そして、いつの時代にも、葛藤の中にあってこそ、自分の譲れないものを護ることを選んできたのだ。譲れない、護るべきものが何なのか。それによって人品が自ずと定まる。

分の人生の中で、何を成すべきなのか。何を成さざるべきなのか。それは決して経済的な成功だったり、社会的な立場だったり、ばかりではないだろう。自分の愛する人に、街に、コミュニティに、何ができるのか。そんなことを仕事を通じて日々考えることができる日々。悪くない。照れずに言えば、楽しい。新たに選んだのは小さな会社だけれど、目指すものは大きく、矜持もある。今、自分がいる環境に感謝したい。そして、護るべきものがだんだんとはっきりしてくる自分に対しても素直に喜びたい。すると自ずと、成すべきものが分かってくる。決して人品を疑われるような歳の取り方はできない。「なんだか今日は固めなこと書いてるねぇ。でも大丈夫だよ、私が一緒だから、そんな嫌なジジイにはならないよ」ふぅ。こんなお気楽妻と生活すること、それも素直に楽しみたい。

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2008年9月 7日 (日)

2冊の白い文庫本『かもめ食堂』『ネバーランド』

P1000820画を観るのが先か、原作を読むのが先か。そう問われたら、間違いなく原作を読むのが先!と答える。私は文庫本の解説を先に読むやつ(妻もそう!)が信じられない。何の先入観もなく作品を読み、作者の創造した世界を自分の中で再構築するのが読書の愉しみだと思っている。でも、この作品については知らなかったのだ。原作があることなんて。文庫本が本屋の店頭に並んだ時も、映画のノベライズか?と思ったほどに。それぐらい映画作品としての「かもめ食堂」は独自のほわんとした世界を描き、完結していた。涼しげな空気が流れるこぢんまりとした世界。それに対し、群ようこの作品はほとんど読んだことがなかった。かつて椎名誠の事務所で働いていて、「無印良女」の作者で、それを「むじるしりょうひん」と読ませるセンスが好きじゃないなぁ・・・ぐらいの印象。(失礼)

から、驚いた。面白かった。映画と同じくらい、あるいはそれ以上に。映画の世界観そのままに(考えたら、原作だから、まぁ当たり前なのだけれど)淡々と、軽やかに時間が流れ、現実のような、現実のちょっと外にあるような不思議な物語が綴られていく。映画では説明していなかった背景も丁寧に書かれ(これも当然か)あぁ、そうだったんだと腑に落ちる。映画と小説という表現の違いや、どちらが先かということは気にならず、どちらも独立した作品として、えこ贔屓や偏見なく、「好き」と言える。私にとってはとても珍しい現象。どちらかに肩入れすることなく、両者のメディアの特性をそれぞれ評価して、補い合ってプラスになる受け止め方ができる。ただし、仕方ないのだけれど、登場人物の顔や姿が映画のキャスティング通りになってしまう。本を読んで広がるはずのイメージが限定される。だから私は原作が先!なのだけれど、今回の場合はそれもまた楽しかった。観て欲しい、そして読んで欲しい、お薦めの組み合せだ。

P1000821 田陸は、当たり外れが激しい。誤解のないように言っておけば、私にとって。食事(料理)や読書(小説)は嗜好性の高いものだから、評価はあくまでも個人的なもの。当たり外れは、作者や作品に対しての評価ではなく、自分自身に対して向けられることば。言い換えれば、恩田陸には大好きな作品と、途中で投げ出してしまう作品があるということ。だから「夜のピクニック」以来、久しぶりに、とても嬉しかった。途中までどきどきしながら、ストーリーにだけではなく、途中で投げ出さないかと自分自身に対して、読んでいた。スポーツジムのトレッド・ミル(ランニング・マシンのことです)で走っていても感じるのだけれど、走り始めてしばらくはペースを掴むのが大変だけど、一度その日のリズムに乗ったらどこまでも走れそうな日がある。「ネバーランド」は、そんな絶好調の体調のまま、どこまでも読んでいたい気持ちにさせる。“大あたり”の1冊だ。

じ高校生を主人公にした物語でも、主人公たちの背景にある物語は「夜ピク」に比べて重く、辛く、痛々しく、信じがたく、ちょっと「お話」っぽい。しかし、「ネバーランド」に登場する高校生たち4人は、それぞれぎゅっと抱きしめたくなるほど魅力的だ。そして、なんとも絶妙の組み合せだ。その4人のバランスの中に、自分を登場させたい、彼らと会話がしてみたい、こんな仲間が欲しかった、・・・こんなことばを書き綴ると照れてしまうのだけれど、眩しく、妬ましく、読んでいて嬉しくなる4人の男の子。こんな高校生いねぇよっ!こんな学校なんてねぇよっ!などと言わず、読んでみて欲しい。どこまでも、どこまでも、読み続けられる気がしていたのに、もうすぐ終わってしまうと気づく最後の数ページに、切なくすらなってしまう。ずっと高校生のままの彼らを読み続けていたい、ネバーランドの生活を共有したい・・・そんなことを思わせる作品だ。

すっきりと白い装丁の文庫本、初秋のお薦めの2冊。

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2008年7月20日 (日)

現実の隣に『すきまのおともだちたち』江國香織

Photo実の(ところで、現実ってなんだろう?唯一のものなのだろうか?)すぐ隣に、現実の地続きのような物語が待っていて、その2つの世界の時間はどうも流れ方が違っているらしい。江國香織の描く世界は、この『すきまのおともだちたち』に限らず、現実感がありながら、どこか別の物語世界が織り込まれている不思議な世界を描いていることが多い。自分が目で見て、手で触れて、臭いが嗅げて、味わえるのが現実の世界だとしたら、その物語の中で、見て、感じて、味わえる世界も現実と言えるわけだし。『すきま・・・』の中の9歳の少女が野球場で売っているレモネードの味は、(飲んでいないけれど)私にははっきりと分かったし、彼女と一緒に住む<お皿>が車を運転することも違和感はなかった。『アリス』に出てくるウサギと同じように。

は江國香織が苦手だ。ふわふわの髪や、夢々しい(と彼女は表現する)ファッションや、インテリアが苦手だ。パステル調の色彩が苦手だし、自分には似合わないと主張する。1人娘だったのに、彼女の部屋にはぬいぐるみがひとつもなかった。かと言って彼女が現実的だというのではなく、合理的だと言う方が当たっている。それらの事柄と國香織が苦手だということが、関係しているのか、関係していないのかは良く分からない。けれど、彼女は、この鮮やかなブルーの地に、9歳の女の子のイラストが描かれた夢々しい装丁の本を、自ら決して手に取らないだろうことは確実だ。

Photo_2ころで、私は
國香織の本を好んで読む。童話作家として世に出た彼女のこの本の、柔らかな文章も、「こみねゆら」さんの挿絵も、気に入っている。現実の“すきま”世界に変らず存在する9歳の少女も、偶発的に(何度も)そこに住む“おともだちたちを訪ねる“ミス郵便局”と呼ばれる主人公も。けれど、妻には決して薦めない。以前、國香織の作品の何冊かを選りすぐって薦めたところ、どうもぴんとくることがなかったどころか、彼女の好みと対極にありそうな気配がしたからだ。彼女と共有できるのは、ロバート・B・パーカーであり、マイクル・クライトンであり、村上春樹であり、山田詠美浅田次郎であり、ぎりぎり奥田英朗。私と妻の求める物語の重なりとズレ。

國香織の作品であるということだけではなく、私が本屋でこの本を手に取った訳がもうひとつある。(小声でばらすけれど)私が好きだった大島弓子のタッチにちょっと似ていたということ。(もっと小声で)実は、私はかつて、花の28年組と呼ばれた、萩尾望都、大島弓子をはじめとして、山岸涼子、内田善美、山本鈴美香、くらもちふさこ、吉田秋生など少女マンガが好きだったのだ。特に、『綿の国星』の主人公、須和野チビ猫の住む世界は、現実と地続きでありながら、明らかな異世界が展開していることが、ことに魅力的だった。痴気情事(チキジョージ)という、吉祥寺と良く似た街が登場し、キャラクターと見事に合った洋服を着た猫たちの視線で、人間世界と猫世界が描かれる。それも、漱石の『我輩は猫である』の世界観とは全く違った、猫独自の世界が。「ん~、また今日の記事は良く分からんねぇ」と妻。趣味も嗜好も生活スタイルもほぼ一緒のお気楽夫婦、こんなズレが合っても良いんじゃない?

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2008年6月 1日 (日)

学ぶということ、ことばを綴るということ『レトリック感覚』佐藤信夫

Photo藤信夫(さとう・のぶお)1993年没。私にとって憧れの“知性”だった。ソフトで知的好奇心をくすぐる語り口に一発で参った。大学入学まもなく、「言語論」という授業で初めてお目にかかった。毎週の授業が楽しみだった。“義務”として学ばなければならない小学生と違い、受験のために学ぶと言ってもいい中高校生とはなおさら違い、自ら学ぶことの楽しさを教えてもらった時間だった。研究者としても『レトリック感覚』という著書を出版されたばかりで、この手の書籍としてはかなり売れてもいたし、(私の持っているのは7刷!文庫化もされた)何よりも教える人としての魅力もたっぷりお持ちの先生だった。(ロラン・バルトなどの翻訳も手掛けられ、他にも『レトリック認識』『レトリックを少々』など、私の書棚にも何冊かの先生の著作がある)そして、何よりその文章は楽しげで、噛み締めるほど味わいが深くなった。今でも読み返すと、じんわりと先生の笑顔と共にその独特の語り口が浮かんでくる。そう、不思議なことに、パロールとエクリチュールが矛盾なく一致していたのだ。

Photo_2語論」という哲学科の授業はお持ちだったものの、中級・上級フランス語も教えておられ(もちろん履修した)、大学での所属も哲学科研究室ではなく、外国語研究室だった。哲学科の私は佐藤先生に頼み込み、例外的に卒業論文の指導教員になっていただき、「Au commencement etait la fable(初めに神話ありき)」という拙論を書き上げた。この記事を書くために、久しぶりに書棚の奥から取り出して読んでみた。序章:はじめに神話はあったか~ロゴスとミュトスについて~、第1章:神話とは何か~神話の定義・分類・研究法~、第2章:神の名~系譜のノミナリズム~、第3章:政治的神話、第4章:大衆の神話、終章:はじめに神話ありき・・・面白い!自分で言うのもなんだけど、実にまともなことを書いている。きっと今の私よりしっかり物事を考えていたんだろうなぁ、という感想。

Photo_3藤先生からも「なかなかいい論文である」という短いコメントと共に、「A」の評価をいただいた。記事を書きながら、四谷にあった先生のオフィス(書斎)を何度か訪ねたことを思い出した。こんな書斎が持てる、こんな書斎が似合う、そんな大人になりたいなぁと思った自分も一緒に。ん?計算してみたら、当時の佐藤先生は今の私ぐらいの年齢。果たして今、20歳ぐらいのワカモノに憧れの気持を持たれる知性ある大人になっているだろうかと自問する。勿論、否である。学ぶことの楽しさを教えていただき、文章を書くこと、表現することの面白さを学んだのに、お気楽なオヤジとなり、こうして駄文を綴っている私。でも反省したい訳ではなく、実は喜んでいるのだ。市井の人間が、こうして佐藤先生を自分のブログで紹介でき、少なからぬ数の人に読んでもらえるチャンスがある。これはかなり嬉しい。良い時代だ。

日の記事を書こうと思ったきっかけが、三省堂本店の言語論コーナーにあった。10年以上前にお亡くなりになった佐藤先生の新(共)著『レトリック辞典』(2006年刊)を発見したのだ。出版前に倒れ、長い闘病生活の後に亡くなられた先生の遺志を継ぎ、佐々木健一東大名誉教授、松尾大東京藝術大学教授によって纏められたレトリック研究の結晶。パラパラとページをめくると、佐藤先生の語り口、『レトリック感覚』を初めて読んだ時の新鮮な気持が蘇った。しかし、その場では購入しなかった。(6,825円と高かったからではなく)いつか、この辞典のページをじっくりとめくり、自分が読んできた本(ブンガク系)のレトリックの解説を楽しみながら、その“佐藤節”とも言える軽妙で含蓄のある文章自体を味わいたい。そして、願わくば佐藤信夫先生が生涯の研究対象とした“ことば”を綴り続けたい。「え~っ!今日はこれで終わり?ぜんぜん面白くないし、オチもないよ!」・・・仕方ないよ、たまにはそんな日もあるんだよ、市井のオヤジにも。

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2008年4月20日 (日)

その1冊との出会い『ブルータワー』石田衣良

Photo_2の1冊を読んだ後に、自分の中で大化けしてしまう作家がいる。例えば村上龍。『限りなく透明に近いブルー』は話題が先行し過ぎたために読むのが躊躇われ、学生時代に『テニスボーイの憂鬱』を読んだ程度だったのに、『コインロッカー・ベイビーズ』を読み終えた時に、その天才を素直に賞賛した。同時代を描いているのに、近未来の世界を読んでいるような不思議な感覚に囚われた。未来と現在。不快と快感。倦怠感と疾走感。絶望と希望。それらが矛盾なく織り込まれる物語。すっげえ!そして『トパーズ』『フィジーの小人』『ワイン一杯の真実』『長崎オランダ村』『ラッフルズホテル』『69』など、何冊か読み重ね、『半島を出よ』で堂々MY殿堂入り。(蔵書を数えたら30冊以上あった)

Photo_3えば村上春樹。『風の歌を聴け』で、軽やかな文体に魅せられ、『1973年のピンボール』や『羊をめぐる冒険』を読んでも、まだ好きな作家の1人だった。そして『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ後は、内容を確かめずに新刊を買ってしまう愛する作家となった。“世界の終わり”、“ハードボイルド・ワンダーランド”という2つの世界が同時に進行し、融合し、乖離していく、湿った空気の臭いが満ちた不思議な物語。青山一丁目とか絵画館とか、都内の(村上春樹がジョギングコースにしていた)実在の地名が出てくるのに、現実の世界と折り合いがつかない物語が広がっていく。なのに銀座線につながる地下通路にヤミクロが潜んでいると思ってもいる、そんな読者になった。完全にこの1冊でやられてしまったのだ。そして『ノルウェイの森』や『ねじまき鳥クロニクル』に軽い失望を抱きながらも、新刊を熱望し続ける。(蔵書は全ての著作と何冊かの研究本)

して、石田衣良だ。話題性で『池袋ウエストゲートパーク』シリーズを手に取り、登場人物たちに惹かれ、読み続けた。マコトの存在を感じたくなり、池袋の駅に降り立ってみたこともあった。『エンジェル』『うつくしい子ども』『娼年』など、現在を描いても陳腐化しない、爽やかで、悪を描いても救いがあり、絶望を描いても明日が信じられる物語。それでも『4TEEN フォーティーン』『LAST』などの、余りに善的な表現が稀に鼻に付くこともあった。だからハードカバーの新刊が平積みされているのを見ても、文庫になるまで我慢できた。けれど『下北サンデーズ』『美丘』など、ここ数年の発表のスピードと話題性に我慢できないギリギリの状態でもあった。そして待望の1冊、初のSF『ブルータワー』が文庫本化。あっという間に読了。そして、やられたっ!

Photo_4語は、現在と未来とを観念的に結びつけるだけではなく、瀬野周司(セノ・シュー)という1人であり、2人でもある主人公を通じて物理的にも結びつける。何世紀も前に人類が天を目指し建設したというバベルの塔。その姿が細菌戦の結末に訪れた未来の必然の姿である巨大なタワーと重なる。その塔の描写が私の好きな(良い意味で、映画『フラッシュ・ゴードン』のような)B級SFチックで、プロトタイプの未来図のようでも、初めて示された23世紀のようでもある。これ読んでみてっ!おもしろいから。妻にもすぐに薦めた。「ふぅ~ん、確かに今までの石田衣良とちょっと違うね、かなり面白い」でしょ、でしょ♪

墟になった東京に高さ2kmのタワーが聳える、そんな光景が想像できない人はすぐに読んで欲しい。9・11から未来へ続く、思想や階層での闘争の系譜がどんな様相を呈することになるのか、知りたい人は必ず読んで欲しい。鳥インフルエンザに怯え、未来を憂いている人はすぐに本を手に取って欲しい。石田衣良の創造した未来は、刺激的で、悲観的で、残酷で、それでも愛と希望が満ちている。石田衣良の新刊、やっぱりハードカバーで買いたいなぁ。「だって本棚に入らないでしょ」妻の言い分ももっとも。やはり改装して大きな本棚を設えるか。「いらない本は捨てよ~」それができるんだったら、悩みはしない。「私は捨てられるよ」妻の価値観は、ある意味羨ましい。

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2008年2月17日 (日)

TOKYO,Honolulu,NYC「東京マラソン」

Photo_2008東京マラソンを完走した、人たちを観たそれもTVで。暖かい部屋でぬくぬくと「うわぁ~!気温2.5度であのランニングシャツで寒くないのかなぁ」などとほざきながら。実にゆるい観戦。日テレが番宣というか、大会の宣伝をかなり前からやっていたこともあり、ついつい観てしまった。日テレと言えば、箱根駅伝やら24時間チャリティマラソンやら、走ることに関していつの間にかやたら力を入れているTV局となった。それにしてもテレビの影響だけではなく、東京マラソンの盛り上がり方は凄い。他局の取り上げ方も全般に好意的だし、観客の数も驚くほど多い。何より走る人自体が間違いなく増えている。竹橋にある会社に通う身として、皇居周辺をグループで走る人たちを見かける機会も多く、マラソンブームを実感する日々。(スカッシュ仲間のHくん、完走できたかなぁ?)

Photo_3ストンマラソンの名所?と言えば“心臓破りの丘”とか、NYCマラソンはと言えば“クィーンズボロー橋”。そして東京マラソンは、スタートの東京都庁を皮切りに、皇居を半周回、東京タワーを横目に品川を折り返し、銀座四丁目を左折し、浅草雷門に向かい、最近話題の豊洲を横切ってお台場に向かう。TVで観戦している分には見所も多くなかなか楽しそうなコース。沿道の観客の声援も暖かく、出場者からは励まされる、嬉しかったとのコメントも多い。昨年不足気味だった給水ポイントの水やバナナも今年は充分用意されていたらしい。良かった良かった。第1回目から3万人のランナーが走る大会も珍しいし、今年は募集人員の5倍以上の申込みがあったという。凄いね。2回目にして早くも定着した感がある。先輩格のシティマラソンにも引けをとらない大イベントとなった。

P1060686は一生走らない。マラソン走ったり、山登ったりする人の気持が分かんないんだよねぇ」妻の発言は一貫している。ジムで走るのはあくまでもトレーニング。スカッシュのためだったり、脂肪を燃やすためだったり。(どこに脂肪が付いているんだよっ!と突っ込みたくなるけれど)彼女の大好きな村上春樹が走ることを軸にした<個人史(メモワール)>と呼んでいる著書「走ることについて語るときに僕の語ること」についても感想は同様。村上春樹の思考や動向に興味はあっても、彼の走ることへの思いは共有できないらしい。ボストンマラソンやニューヨークシティマラソンを走った彼の文章は、好きなものを小説的な描写とはまた違った表現で綴られた良い本なのに。そして何よりも、生の彼が現れているほっとする一冊なのに。(ノーベル文学賞獲らなくてほんとに良かったですねぇ、村上さん)

う言えばNYCの友人夫妻も、日本でのマラソン経験など一度もないのに、NYCマラソンを2人で走って完走した。東京であれば皇居を周回する市民ランナーが多いように、NYCであればセントラルパークを走る人のなんと多いことか。彼らも大会直前にパークを走って練習を積んだという。ちょっと羨ましい。実は、いつかホノルルマラソンを走ってみたいと(ほんのちょっとだけ)思っている。前職の会社の出張でホノルルマラソンの10kmウォークに参加した際に、完走者たちに感じた緩やかな連帯の記憶。大会翌日に完走Tシャツを着ながら誇らしげに街を歩き、見知らぬ同士が気軽に声を掛け合い、すれ違いざまにハイタッチをし、ハグしたりしている風景が。ちょっと良い感じでしょ?「でも、私は走らないよ」うぅ~む、なかなか手強い。南の島の魅力で、そこをなんとか。

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2008年1月 6日 (日)

チェーン・リーディング「荻原浩」

Photo荻原浩に嵌まっている。最初に手に取った『メリーゴーランド』も確かに読みやすかったし、2冊目の『噂』も、一緒に買った『コールドゲーム』も一気に読めた。エキセントリックにならずにきちんと現代の社会を描いている巧い人だなぁという感想は、決して間違えてはいなかったけれど、彼を語るには充分ではなかった。今思えば、彼の作風が拡がりはじめた頃の作品から手に取ったいうのが原因だった。何しろ、デビュー作『オロロ畑でつかまえて』の文庫本解説では、なんと“ユーモア作家”として紹介され、評価されているのだ。

Photo_22005年に山本周五郎賞を受賞した『明日の記憶』を初めて読んだ人からしたら、まさかぁ?と思うにに違いない。荻原浩がユーモア作家なんて・・・。しかし、そんな人でも『オロロ・・・』と続編?の『なかよし小鳩組』を読んでしまったら、そう認めざるを得ないだろう。広告代理店に勤務した経験のある作者ならではの“裏話”的な、あるある!というエピソードにくすり、ふふふと笑わせる展開から、まさかあるはずもないストーリー展開に一気に読者を巻き込み、くははっと大笑いさせられてしまう。あっという間に登場人物に感情移入してしまう。

Photo_3そしてヒチコック監督が作品にちらっと出演するかのごとく、他の作品の固有名詞をこっそり書き込む。このマニア向けとも言える構成を用意するところなどは、発見した読者が喜ぶ場面を想像し作者自身が楽しんでいるのだろうと思ってしまう。そう、楽しそうなのだ。楽しそうに書いている姿が作品の向こう側に見えるのだ。決して文章を紡ぎだすことは楽な作業ではないはずなのに、自分も楽しみ、読者も楽しませようとするエンタティナーなのだ。だからこそ読者を飽きさせることなく多様な作風、作品群で魅了することができるのだ。

Photo_4どんなに“ブンガク”でございますと声高々に宣言しても、読んでもらえない作品は悲しい。ケータイブンガクがベストセラーとなることが嘆かわしいと言う前に、なぜワカモノに受け入れられるのかを考えなければならない。泣かせだけのベストセラー現象は長くは続かない。マーケティングの理論からだけでは売れる作品は生まれない。(でも表紙を変えただけで売れた文庫がいくつもあったけれど)芸術である前に、読んでもらえる魅力が作品に、作家にあるならば小説という表現形態は消滅しない。その形が変わっていっても。きっと。

・・・ということで、荻原浩が、今おもしろい。発刊されている全ての文庫本を買い漁り読み続けている。そして作品毎に、にんまりさせられ、しんみりさせられ、わくわくさせられ、ほんのりさせられている。日本の作家は余り読まない妻も、珍しく全作品を読もうとしている。「乾いた文章じゃなきゃ嫌なんだよねぇ」・・・だったら『明日の記憶』とか『噂』は違うかもね。「じゃあ読まないでおく」・・・相変わらず妻の読書スタイルは変らない。

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2007年12月 8日 (土)

自分事の物語「明日の記憶」荻原浩

Photo_3「あ、IGAさん外でランチですか?誰と一緒に行くんですか」エレベーターホールで同僚に話しかけられた。うん、××さんともう1人可愛い女性とね♪と答えつつ、名前が出てこない。え~っと、あの人と似てる名前。あの、ほら、誰だっけ。下に○○が付くのは思い出した。ん~、あ○○、い○○、う○○、え○○、お○○・・・。お、お、「お」が引っ掛かる気がする。この自問自答を頭の中でやり取りをしている途中で、その本人が現れた。問われた答えが出る前に。名前が思い出せず、喉元に引っ掛ったまま。同僚もよせば良いのに「あれ、IGAさん名前忘れたね」と揶揄する口調になる。そ、そんなことないよ、と言いつつ答えは出てこない。

「え、何話してるんですか?」「実はIGAさんね・・・」その同僚は私同様に人が悪い。なんてヤツだ。バラすんじゃない!焦れば焦るほど喉元に引っ掛かっていたヒントが記憶の奥に沈んでいく。気まずい空気が流れる。話題を変える。本人は気にしていない風だけれど気のせいか表情に柔らかい怒気が含まれている気がする。あっ!思い出した。お×○○さんだぁ。しかしそれはもう遅い。今さら名前で呼びかけるのもタイミングが悪い。「じゃあ、私は銀行に寄って行くんで」おいおいっ!彼に悪気はないのだと思う、思いたい。しかし、ちょうどその時に読んでいたのが荻原浩の『明日の記憶』だったこともあり、自分自身の病を疑った。

若年性アルツハイマー病に罹った働き盛りの主人公。欠落していく記憶、覚えられない新しいことば。年齢を重ねていけば仕方がないでは済まされない症状に病院で診察を受ける。そして妻と共に告知を受け、会社には伝えず病と闘うことを決意する。その後の描写は読んでいるのが怖く、辛い。サスペンス小説を読んでいるのとは少し意味合いが違う、怖いけど読みたいという気持がずっと続く。いつもの得意先に向かう道を忘れてしまう際の描写などは、本を読んでいることを忘れてしまい、思わず目を伏せてしまう。映画じゃないんだから目を伏せても仕方ないのに。他人事ではなく、自分に起きてしまっているような身近な恐怖。肉体の死の前に訪れてしまう記憶の死、脳の死、人格の死。

それまで読んだ『メリーゴーランド』などの作品群とは大きく趣が違う。しかし、どんな苦いエピソードにも救いがあることは共通。感情移してしまう私は涙を堪えるのに必死。通勤電車で読むのは辛い。もし、私がアルツハイマーに罹ったらどうする?隣でつまらなさそうに本を読む妻に問うてみた。「え~、仕方ないじゃない」・・・どんなことばが続くのかどきどき。「一緒にいるよ」我慢していた涙が零れそうになる。よし、忘れないように記憶力の訓練だ。お×○○、お×○○、お×○○、お×○○、呪文のように忘れてしまったランチ仲間の名前を頭の中で唱える。今度は名前で呼び掛けよう♪「それに・・・」妻が珍しくことばを続けた。「あなたはお酒飲んだらたいてい記憶なくすから、断続的な記憶障害のようなものだしね」えっ!それは若年性アルツハイマーの典型的な・・・。

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2007年11月11日 (日)

ブーム到来「角田光代の作品群」

Photo お気に入り作家の新作(正確には文庫化された新作)が出ない日々が続くと、新たなお気に入り作家を探すことになる。お気に入り候補作家は何人かストックしてある。新聞広告や書評で気になっている作家名と作品名リスト。そのリストを頭に入れ、本屋の店頭で候補作を手に取り、装丁を眺め、著者紹介を熟読し、書き出しの数行を読む。(本屋での扱われ方も気なるが、手書きPOPは気にしない)そして最終的には自分の“勘”が頼り。最初の作品と肌が合わないとしばらくその作家はリストの下位に位置してしまうことになる。

そうなってしまったら、互いに(作家と読者として)不幸な関係。だから最初1冊の選択はとても重要。角田光代の初めての作品が『空中庭園』だったことは、実に幸福なこと。角田光代は、その名前や受賞暦だけではなく、映画化された作品(小泉今日子が主役だった)を観てはいないけれど知っており、ちょっと気になる作家だった。作品の舞台は郊外のダンチ。そこに住む5人の家族。家庭の方針は「何事もつつみかくさず」なのに、5人の家族(+1人)の6人の登場人物の視線で語られる6つの章は、包み隠さないはずの生活の裏にある生々しい個の物語。時間や空間は重なり合うのに、決して重なり合うことのない気持。章が進むほど、すっとぼけた家族の会話の中に、それぞれの裏が見えてくる怖さ。なんてことはない日常が舞台だからこそ怖さが増幅する。

Photo_2 ・・・ということで、嵌ってしまった。角田光代、お気に入りリストに見事昇格!おめでとう!文庫化されている作品を買い漁る。立て続けに読みまくる。直木賞受賞作『対岸の彼女』も一気に読み終えた。短編集『だれかのいとしいひと』も悪くない。どれも会話が生きている。リアリティがある設定。今どきの若いカップルの、倦怠し始めた夫婦の、話しかけられなくなり始めた親娘の、出産後に仕事に戻ろうとする母親と義理の母の。男性の視点でも、もちろん女性の気持も、若い娘のストレスも、ばあさんの悩みも、器用に書き分ける。適度な毒もある。

やはり新作不足に困っている妻にも薦めた。速読の妻はあっという間に何冊かを読んでしまったようだ。どうだったと尋ねると、「悪くないね」との答え。へぇ、何から読んだのかと聞くとやはり『空中庭園』から。ふんふん。それは良かった。二人で読むとコストパフォーマンスが良い感じ。「でも、人が死なないのはちょっとね」海外作家のサスペンスものが大好きな妻はちょっと不満気。でも、日本の作家の作品で人がたくさん死んでいったらリアリティなくなぃ?「あぁ、確かにそうだねぇ」妻のお気に入りリストに載る作家たちはジョナサン・ケラーマン、ロビン・クック、グレッグ・アイルズ、パトリシア・コーンウェルなど。「読んでみたら?面白いよ」うん、そうだね。ジェフリー・アーチャーも気に入ったし。でも、お気楽夫婦の嗜好が重なる作家は半分ぐらい。残りの半分は老後のお愉しみ。

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2007年9月23日 (日)

読書の秋「秋休みの推薦図書」

Photo_5子供の頃、夏休みの「推薦図書」が嫌いだった。推薦された作品が嫌いだった訳ではなく、子供が読むべき本、というカテゴライズされた作品たちが嫌いだった。そう、早い話が嫌な子供だった訳だ。それが今は、嫌な大人。人間そうそう変るわけはない。ところで、その嫌な大人になった今、子供もいないのに<子供に読ませたい本>を立て続けに読んだ。読んだ後に、これを小学生や中学生、高校生ぐらいのガキ共に読んで欲しいなぁ、と思わず思わせる本。ぜひ“IGA推薦図書”に加えたい。それにしても、やっぱり身勝手で嫌な大人になっているなぁ。

Photo_9奥田英朗の作品は、非現実的なストーリーが、独特の世界の中で成立している。こんな医者いるわけない!と思わせる伊来部一郎の活躍する『イン・ザ・プール』がその代表。この『サウスバウンド』にしても同様。こんな親父、今時いないだろうっ!と突っ込みたくなるけれど、するするとその物語の中に絡みとられ、いつしか拍手せんばかりに主人公たちを応援している自分を発見してしまう。現実にはないけれど、あって欲しい世界。いないだろうけど、いて欲しい人々。中野に、沖縄に、そんな人々が活躍する。そう、活躍するのだ。読むべしの上下2冊。

Photo_10佐藤多佳子『黄色い目の魚』では、ちょい不良だけど大人になり切れない大人たちと、大人にならなきゃと頑張ってしまう多感な季節の子供たちを、実にさらりと、生き生きと描きあげる。『サウスバウンド』と同様に、現実的には存在が難しいだろう不思議な親子の関係を、あって欲しい関係として無理なく読者に受け入れさせる。それにしても佐藤多佳子の文章はそのセリフのリアリティとも相まって、実に読み易い。彼女の創った世界なのに、自分が経験しているような身近な世界として目の前に現れる。登場人物の造形がはっきりとして、それでも全てを語らず、読者に余韻も残す。'07年本屋大賞『一瞬の風になれ』の文庫化が待ち遠しい。

Photo_12中沢けい『楽隊のうさぎ』を読んでいると、“音”が聞こえてくる。それはオーケストラの“音”だけではなく、学校の音、風の音、夜の音、耳を澄ませて聞こうとすれば聞こえてくるあらゆる音。続編の『うさぎとトランペット』にも通じる、“うさぎの耳”がキーポイント。音楽って、こんなに豊かなんだと文字を通じて思わせる文章。楽器ができる人が羨ましくなり、今からでも始めようかと思わせるストーリー。・・・3連休も多い秋の夜長、こんな本を読んで過ごすのも悪くない。もちろん、いずれも大人のための本でもある。子供がいる大人のための、子供に戻りたい大人のための、そしてかつて子供だった全ての大人のための。

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2007年7月 1日 (日)

映像と文字の世界「しゃべれどもしゃべれども」

Photo_190この本を読んでいる間ずっと、国分太一くんの顔と声が纏わり付いた。彼が嫌いな訳ではなく、私にとってはむしろ好印象。けれど、文字を読んで自分のイメージを広げるタイプの私としては、太一くんのビジュアルが目の前に始終出て来られると、ちょっと困る。とは言っても映画をきちんと観たわけでもなく、TVで予告編を観ただけ。なのに映像のインパクトは強く、自分の創ろうとしている映像が、どうしても太一くんに勝てない。ジャニーズのキャラは強い。その上、表紙のイラストがますます固定されたイメージを私に植えつける。困った。

それでも、佐藤多佳子『しゃべれどもしゃべれども』を一気に読んだ。実は、彼女の2007年本屋大賞を受賞した『一瞬の風になれ』が気になっている。だが、<特定作家以外のハードカバー禁止条例>が施行されている我が家では、まだ未読の作者である彼女の本は(まして3部作など)到底買えない。そこで文庫本化された彼女の著書の中から選び、読み始めた一冊だった。映画化され公開されるということで本屋に平積みされていたのが目に付き、手にとってみた。当たり♪面白い。軽やかな文体、というよりは主人公の噺家<今昔亭三つ葉>の語り口が実に良い。こぃつぁおもしれぇ。これがまた、私の頭の中では太一くんの声になってしまうのだが。これはもう仕方ないと諦めた。

Photo_191後はいっそ映画を観に行き、文字と映像の違いを愉しむという反撃に出る作戦もある。この作品は妻も読んで面白かったらしく、映画に行こうかと誘うと「良いよ」との返事。日本映画にほとんど興味を持たない彼女にしては珍しい。そう言えば『博士の愛した数式『夜のピクニック』など、本屋大賞の作品はいずれも映画化されているが、いずれも誘うと「んん、観なくても良いかなぁ」という反応だった。その違いは“笑い”というか“エンタメ”度の有無。淡々とした映像を愉しむというか味わうことができない妻。「だってわざわざ観に行くのに楽しくなきゃ♪」という姿勢は映画でも貫かれる。それは“快楽主義”そのもの。私を操り、文字を書かせ、実際的にこのサイトを主宰するのは実は彼女なのかもしれない。

それにしても最近自分たちが読んだ本が映像化されることが多い。桐野夏生の『玉蘭』もその一冊。常盤貴子主演でテレビ朝日がドラマ化。そして浅田次郎原作の『憑神』は妻夫木聡主演で映画化され、中村橋之助主演で舞台にもなる。G2が演出する新橋演舞場での公演チケットが取れなかった妻は、「じゃあ映画で我慢するかぁ」とのたまう。彼女の中では、エンタメ度≧芸術性という優先度と、ライブ(舞台)>映像(劇場での映画)>TV(録画再生可能)という数式が明確。これも文字通り消えてしまうお気楽夫婦の“消費”動向に大きく影響している。むむっ?もしかしたら、このサイトだけではなく、二人の生活を主宰するのは・・・。

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2007年5月27日 (日)

最後のサギサワ「ビューティフル・ネーム」

P1040406文庫本の表紙をめくると、筆者の近影と略歴が載っている。1968年、東京生まれ。上智大学外国語学部ロシア語科除籍。幅広い読者の支持を受ける現代文学の気鋭作家。2004年4月、死去。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もう3年も経つんだなぁと思いながら、ページをめくる。これ以上<サギサワ メグム>という作家の新しい作品は生まれてこないんだ。これが最後の作品なんだ、大事に読まなきゃ。

“遺作”と呼ぶには、余りにも生命の輝きに満ち溢れた作品だ。途中で何度か呼吸を整えながら溜息を付く。涙腺の元栓を閉める。なぜ、なぜこんな才能が世の中から消えてしまったのか。「ビューティフル・ネーム」のタイトルどおりに“名前”に拘った短編が3つ。それも最後の1編は未完。“名前”を巡る、日本という国と、そこに暮らす“日本人”、日本国籍を持たない異邦人たる“在日”の物語。こんな書き方をしてしまうと、重苦しいテーマのように感じるかもしれないが、そこはサギサワ。明るく、軽やかに、だからこそ的確に問題の核を突き、日常の暮らしの中で起こる“矛盾”や“差別”や“無意識”をはっきり意識させる。それに、なんと言っても登場人物たちが、カッコイイのだ。

歴史を知らず、教えられず、知ろうとせずに育った日本人の若者や、正しい情報や知識を与えられずに偏見を持ってしまった日本人の大人たち。そんな大多数に対し「ね、ちょっとこういうのカッコ悪いでしょ」と、日本人の立脚する日本という国に対する幻想や“日本人”の定義に対し、アンチテーゼを突きつける。サギサワは、父方の祖母が韓国人であることを知ったと自ら宣言し、それ以降作風が変化した。傷付き易い危うく繊細な側面が彼女の作品の魅力でもあったが、自分の立脚点を発見し、見つめ直し、良い意味で開き直った後の彼女の作品も大好きだった。「ケナリも花、サクラも花」という韓国留学生活を描いたエッセイ集が、直接的な韓国との出会い、ぶつかり合いだとしたら、この「ビューティフル・ネーム」は、それらが彼女の中で消化され、昇華された物語。

P1040339作品という形でしか接点のない読者として、彼女の悩みや迷いや葛藤は知る由もない。しかし、惜しい。余りにも惜しい。せっかくこんな作品を生み出す才能があるのに、それを自ら絶ってしまうなんて。「君はこの国を好きか」などという物騒にも聞こえるタイトルの作品の解説で、映画監督の崔洋一がこう書いている。「鷺沢萠はことばとしての「ハングルに感電した」女(ひと)である」そう、彼女は新たに自分を発見し、ことばや名前についてそれまで以上に敏感になり、新たな作品を生んだのだ。そんなサギサワの感電に、二重遭難的に感電した読者である私は、国境や文化の壁を飛び越えて、彼女の作品を味わいたい。さぁ、韓国料理でも食べに行くか!・・・オチではなく、テレで締めるしかないな。

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2007年5月12日 (土)

大人読み「アリスとロビンソン」

Photo_152学生時代、最も就職には役立たない学問のひとつ“哲学”を専攻していた私は、「言語論」というこれまた経済的な幸福をもたらしそうもない科目を履修していた。『レトリック感覚』という名著を残された佐藤信夫教授が担当だった。独特の語り口と魅力溢れる講義内容は、この科目を履修できただけでも大学に入った価値があると実感できるものだった。その授業をきっかけに卒論でもお世話になり、外国語研究室にも度々お邪魔した。(佐藤教授はフランス語も担当していた)当時の研究室には、『ブリューゲルへの旅』の中野孝次さん、幻想文学の種村季弘さん、中野好之さんなど、錚々たる方々(残念ながらいずれも故人)がいらした。

佐藤さんが言語論の講義中に取り扱った作品のひとつが『不思議の国のアリス』だった。チェシャ猫がしっぽの先から消えていき、にんまり笑いで終わる。そして、その“にんまり”だけがしばらくあとに残っていた・・・という描写。レトリックの例として示された、その作品の中のシーンが印象的だった。なのに、今以上に快楽的な生活を送っていた学生の私は、アリスを読まなかった。読んでいないのに、読んだ気持になっていた。子供用に訳された本を読んだかなぁぐらいに、都合の良い架空の記憶を持っていた。なのに、なぜか去年の夏休みの“指定図書”として文庫本を購入。これがまた読まないままにウェーティング・スペースに残っていた。

Photo_153それがこの春、たまたま気が向いて読み始めた。あっという間に惹き込まれるワンダーワールド。あの有名な白ウサギも初めて会った気がしない。金子國義のエロティックなイラストも、めくったページに現れるの度に妙に視線の端っこに引っかかる。う~む、こりゃぁ子供だけの本じゃない。そして指定図書として購入した2冊目、『ロビンソン漂流記』を手に取った。読み始めてすぐに、子供の頃にも読んでいないことを自覚した。というか、もし子供の頃に読んでいても、違う視点で読んでいるだろうなと思いながら読了。作者のデフォーが59歳にして初めて書いた小説。自分の人生を振り返り、ロビンソンに重ね合わせたのだろうか。キリスト者として、ヨーロッパ人として、親との関り、いくつものテーマが孤島での生活描写の中に織り込まれている。大人になってこそ滋味深く味わえる物語。これぞ“大人読み”。(他社でこの本を翻訳した中野好夫さんは中野好之さんの父)

「無人島に持って行く1冊の本は何?」と雑誌などの特集にありがちな質問に、今の私が答えるとしたら『ロビンソン漂流記』を選ぶ。単なるサバイバル生活のガイド本としてではなく、精神的な支えとして。妻にも無人島に持って行く1冊は何かと尋ねた。「う~ん。辞書かなぁ、あっ!地図の方が楽しいか♪」小説を読んでも淡々と“活字”として消化し、物語が映像として立ち上がってこない妻の読書スタイル。地図を眺めている方が空想の世界に没頭できるらしい。「え?没頭じゃないよ、ボーっと眺めていると楽しいだけだよ」・・・う~む、そうだったのかぁ。

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2007年4月30日 (月)

キャッチボール「伊集院静の短編集」

Photo_135新刊の文庫が発売されると、中身を見ずに買う作家が何人かいる。ハードカバーを買うことは一部の例外を除いて禁止されている我家では、文庫とは言え“特待生”扱い。ちなみにハードカバー購入が無条件で許されているのは、村上春樹とロバート・B・パーカーの二人だけ。そして、文庫になった時点で無条件に購入する日本人の作家は、浅田次郎、石田衣良、江國香織、奥田英朗、景山民夫、鷺沢萠、重松清、椎名誠、中島らも、山田詠美、阿川佐和子、そして伊集院静。3人の故人を除けば、僅か9人。やっと野球のチームができる人数。私にとってのベストナイン。そして、さしずめ亡くなった3人は殿堂入りか。

Photo_136伊集院静は、そのいくつかの著作で繰り返し書いているように、立教大学の在学途中まで野球を続けていた。野球をテーマに、あるいは背景にした小説やエッセイも多い。そしてこの春、“野球”をベースにした文庫の企画本が出版された。カバー装画の井筒啓之さんのイラスト、カバーデザイン(伊集院さんの友人でもある)長友啓典さんによる装丁も爽やかで、つい手にとってしまいたくなる。「ぼくのボールが君に届けば」「駅までの道をおしえて」「坂の上のμ」「受け月」そして、「野球で学んだこと ヒデキ君に教わったこと」の5冊。

Photo_137伊集院静の作品は、読んでいると背筋が伸び、読後にきっぱりとした気持にさせてくれるものが多い。浮かんでくるイメージは、鎌倉や京都に残るきちんと掃除が行き届いた日本家屋にある床の間。季節の移り変わりをはっきりと意識させる場所。静謐な世界で時間が静かに穏やかに流れて行く。世の中では<無頼派作家>と呼ばれているが、筆致には品があり、細やかな心情が描かれる作品は、ひとつの物語ごとにちょっと嬉しく、淋しく、時にもの悲しい余韻を残す。この5冊も、読みきった後に満足感が拡がると同時に、黄昏時に感じる僅かな人恋しさが湧き上がる。彼の投げたボールが、きちんと届いた。

Photo_1385冊と書いたが、小説としては4冊。残り1冊「ヒデキ君に教わったこと」は、松井秀喜選手のヤンキースでの活躍を追ったエッセイ集。青い空と緑の芝生が印象的な美しい写真も多数掲載されている。そして、このエッセイ集の中にも、短編集のいくつかにも、キャッチボールの描写がある。例えば、こうだ。「最初柔らかなボールを相手の胸元に投げ、相手も同じように投げ返して、そうして少しづつ離れていって速くて強いボールを投げる。一方的に相手が受け取れないボールを投げるのはキャッチボールではない」・・・伊集院静は、人と人との関りを、作者と読者の関係をキャッチボールのように描いているのかもしれない。「上手くボールが投げられないから、キャッチボールって苦手なんだよねぇ」妻が零す。お互いに暴投もあるけれど、暴投のボールを拾いに行くのは、投げた方ではなくボールを受け損ねた方。それがキャッチボール。そんな関係を続けていくのも面白い。

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2007年4月 7日 (土)

読書のための宿「ハイアット・リージェンシー箱根」

P1030996読書をするために設えたような、快適な空間で週末を過ごした。<ハイアット・リージェンシー箱根リゾート&スパ>DXツイン。落ち着いた色合いで統一されたベッド&リビングルームに続くサンテラス。ちょうど新聞を広げられるぐらいの大きさのテーブルがひとつ。座り心地の良い椅子が二脚。窓を開け放すと春の柔らかな風と共に、まだ練習中の鶯の鳴き声が部屋に流れ込む。長閑な朝。窓に向いた大きなソファも快適だが、その場所は妻がキープ。年度末の慌しさにピリオドを打つために選んだ今回の宿。二人が普段は持ち歩かないハードカヴァーをそれぞれ1冊、この部屋に持ち込んだ。

P1040090ロバート・B・パーカーの翻訳をなさっていた菊池光さんが亡くなり、スペンサー・シリーズは加賀山卓朗さんが引き継いだ。シリーズ最新刊『スクール・デイズ』は、菊池流を残しつつ、若々しさを加えたスペンサーが登場する。訳者が代わってもスペンサー節は変らず、スーザンがほとんど登場しない淋しさを、彼女の愛犬パールの活躍が埋めてくれる。ファンにとってはほっと安心の1冊。妻は同じくパーカーのジェッシー・ストーン・シリーズ最新作『決別の海』。こちらの訳者はベテラン山本博さん。それぞれ読み比べるのも楽しみ。

P1040018_1昨年の12月、強羅にオープンしたこのホテルは、他にも読書に適したスペースを持っている。ハイアットグループは<パーク・ハイアット>、<グランド・ハイアット>など、いくつかのカテゴリのブランドがあるが、この<ハイアット・リージェンシー箱根リゾート&スパ>は、全ての部屋がクラブフロア扱いのリゾートタイプ。暖炉を中心に吹き抜けの大空間が広がる“リビング・ルーム”と呼ぶスペースでは、夕方はシャパンを含めフリー・ドリンク・サービス。ゆったりとグラスを傾け、時間を忘れて読書ができる場所だ。

P1040035もちろんこのホテルには温泉やスパがあり、浴衣姿で“リビングルーム”や“ダイニングルーム”で寛ぐことができる。場所柄、着慣れない浴衣をはだけた外国人観光客も多い。スリッパでぺたぺたロビーを歩き、ダイニングルームでフレンチを食べるカップルも、ここでは微笑ましい風景になる。夕闇が訪れ、本がすっかり読めなくなった頃、アコースティック・ギター・デュオが演奏を始めた。あまり巧くないのはご愛嬌。読書は諦め、暖炉の火をぼーっと眺めながら何杯目かのシャンパンを飲み干す。その時はまだ、調子に乗って飲み続けた“つけ”は翌日にやって来ることも知らず。・・・明日に続く。

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2007年2月28日 (水)

乗り過しにご注意を!「ゴッホは欺く」

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普段の生活では馴染みのない街を訪れることになった。それも、週末も含め毎日。東京の南西、世田谷の端っこから東京の北東に位置する足立区へ。仕事とは言え、毎日となるとちょっとたいへん。しかし、恩恵もあった。遠いということは、電車に乗る時間が普段より長い。それも朝は都心から郊外に向かい、夕方は郊外から都心に戻るという一般的な通勤と逆のコース。つまり、電車の中で座って読書できる時間が増える、ということ。ふぅむ、何を読もうか。

そこで初めて手に取ったのが妻の本棚にたっぷりある、ジェフリー・アーチャー。彼に対する知識はと言えば、イギリスの上院議員だったり、何の罪かは忘れたけれど実刑判決を受けて投獄されて、その体験を獄中記として発表したり、という波乱に満ちた半生のみ。ベストセラー作家である彼の著書に関する知識はほとんどなし。という状況で読み始めた文庫版最新作『ゴッホは欺く』・・・これが、実に面白い。登場人物がやたらと多く場面転換も目まぐるしいため、その関係やらキャラクターが把握できない前半部分は、何度もページを戻したり、表2の“主要登場人物”で名前を確認したり。しかし、その登場人物たちが一度“読書映像”(本を読むときって、映画のように自分の頭の中で映像を描きながら読みませんか?妻は全く映像が動かないらしいけれど)で動き始めると、それぞれのキャラクターが魅力的で、一気に最後まで読ませる。

ストーリーは、9月10日から26日までの2週間、“名画”を巡る物語。その名画、表紙にもある『耳を切った自画像』を我が手にしようとする登場人物たち。ニューヨーク、ロンドン、ブカレスト、東京を舞台に、繰り広げられるサスペンス・ドラマ。はらはらしながらページをめくる。大団円に胸をなでおろす。9.11を素材の一部にしながら、チャウシェスク政権や絵画オークションの舞台裏、ロンドンの貴族の生活を織り込みつつ、スピードある展開が1ページも飽きさせない。原題の『False Impression(間違った印象)』通りに、ジェフリー・アーチャーを誤解していた。“ベストセラー作家”ということが、私にマイナスイメージを与え過ぎたようだ。(でもシドニー・シェルダンは、きっと一生読まない)よし、気に入ったら一気に読んでしまおう♪ということで、足立往復5日間に読み終えた著作が5冊。

『運命の息子(上下巻)』『十一番目の戒律』・・・いずれも降りる駅を忘れそうになりながら読み続けてしまう。・・・いや、正直に言うと、1度は乗り過してまった。大河ドラマ的なストーリー(彼はサーガと呼んでいる)や、登場人物の余りにスーパーマン的な設定が鼻につく、善悪の対比が極端過ぎるなどの感想は置いておく。エンタテインメントとして楽しいのだから、それで良し。妻に言わせれば、昔の作品の方が質が高く面白いとの評価。まだまだ続く足立詣。この際、ジェフリー・アーチャー、全作品読了だ♪

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2007年1月27日 (土)

親子で読書「となり町戦争」「メリーゴーランド」

Photo_53素人の書き綴るブログの記事だから、“読者”を意識することはない。お気楽に、のんびりと続けられれば良い。そう思って2年近く、毎週末に2つの記事をアップしている。あくまでも自分の楽しみのため。あるいは妻へのメッセージとして。でも、長く続けていると、毎週読んでいますと言われることがある。お会いしたことがある方なら「ありがとう」と伝えれば済むが、お会いしたことのない妻の旧友に「読書好きの息子と、毎週楽しみにしています」と言われると、ちょっと肩に力が入ってしまう。記事を読む息子さんを想像し、頬が緩む。

そんな、仲の良い(であろう)読書好きの、親子が住む地方都市の“となり町”で、戦争は起こった。偶然ではある。架空の町名ではあるし、厳密には字も違う。そして、政令指定都市を目指すその都市に吸収され、“町”としての名は失った。でも、町民に知られずに淡々と戦闘が続く不思議なストーリーを追いながら、奇妙な親しみやすさと共に、ずっとその地方の風景を頭に描いていた。冬の日には強い風が吹き、気温の割には寒さを感じる遠州灘沿いの街の風景。そこで行われる、活性化施策としての“戦争”。町役場の総務課に「となり町戦争係」が設置され、実際に戦闘が行われ、広報紙に戦死者が掲載される。現実感のない設定が、リアリティあるストーリーとして綴られる不思議な物語。“となり町”の名前は・・・どうぞ、親子で読んでみてください。

Photo_54母と息子が仲良く読書する傍らで、ちょっと淋しいお父さん(想像)。二人と共通の話題を持つためにも、こんな本はいかがでしょうか。やはり物語の舞台は地方都市。東京からUターンして妻子と共に暮らす出身地の町に、バブルの遺跡のように残るテーマパーク。その再建を任された市役所勤めのお父さん。彼の格好良すぎないキャラクター設定が好ましい。無理やり涙を呼ぼうとしないさらっとした文章も読みやすい。“お役所仕事”に笑ってしまう。自分にとって“仕事”って何だろう、働くことって・・・思わず日経新聞のCFのセリフを思い出し、「目からイクラが落ちて」しまう。読み終わるとちょっと元気になる。

偶然ながら、地方都市を舞台にした2つの物語を日を置かずに読んだ。題材は硬く言えば“まちの活性化”だとか、“ハコモノ行政の遺物の再建”。そんな、日本中どこでも他人事ではない背景を軽やかに、ちょっぴり薄味のアイロニーを込めて、丁寧に書き込んだ二人の作者。彼らに親近感を感じるのは、自分の仕事に関るからでもある。たぶん。企業に社会的責任(CSR)があるように、個人にももちろんある。周囲に正義感やモラルだけを振りかざすのではなく、何かできることを自らが実行する、ということだけでも。

「あれ?今日は駅弁の話じゃなかったの?」画面を覗いた妻がネタばれセリフ。彼女も私のブログ記事の“オチ”に登場するという責任を全うした。・・・駅弁は、明日。

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2006年12月10日 (日)

収納の限界「文庫本の生涯」

Photo_14お気楽夫婦の家は、狭い。完成前に設計変更し、収納を増やしたものの、それでも限界がある。そんな事情から、二人には、モノを買う際に“暗黙の了解”がある。すなわち、「収納できるモノしか持たない」こと。例えば、クローゼットに入れば新しいコートが買えるが、入らなければ古いコートは捨てるか、誰かにあげる。モノが増えるのを抑えるためのルール。ところが、それが実現できないものがある。・・・“本”である。

Photo_16もともとハードカバーは、収納の関係で制限されている。よほどのことがない限り文庫本限定。そして、購入した文庫本は、まずデスクの前に収納される。ここは、ウェイティングスペースであり、すぐに読まれようとしている本、読まれずに待機し続けている本が並ぶ。著者も傾向もばらばら。二人共読み終えたら、初めて正式な収納コーナーへ移動する。ハードカバー用の本棚の上には、ほぼIGA中心のラインナップ。そこには、「石田衣良」「重松清」「奥田英朗」「辻仁成」「山際淳司」「景山民夫」「鷺沢萠」「村山由佳」などが並ぶ。

Photo_17そして、お気楽妻中心の“一軍ラインナップ”が並ぶのは、ベッドサイドにある文庫文専用の本棚。「J・ケラーマン」「P・コーンウェル」「G・ルッカ」「G・アイルズ」「ロビン・クック」「R・パーカー」「M・クライトン」「S・キング」「D・フランシス」などが並ぶ洋書系の本棚と、「村上春樹」「村上龍」「山田詠美」「中島らも」「浅田次郎」「わかぎえふ」「椎名誠」などが並ぶ和書系の本棚。発行番号順に、カラーグラデーションを考慮して、A型の妻が几帳面に本を並べる。

Photo_18Photo_20そして、全著作を読もうと思わなかった“二軍落ち”本と、過去に愛読した“殿堂入り”の本たちは、ミラー扉の書棚に収まる。ここは、扉を開かなければ背表紙が見えないため、余り日の目を見ない。そして、“戦力外通知”を受けた本の行き先が、ここ。哀れ<ブックオフ>に持って行かれるか、ゴミだし処分となる。

「捨てようよ、読まないって!」「いや、手放したら二度と手に入らないし、本を捨てるのはイカンっ!」・・・その本たちの最期を巡って、お気楽夫婦は紛糾する。最後には、改装して本棚を増設するまで、取っておこうというIGA的見解がごり押しで通る。が、その本たちの収納も限界に達している。う~ん、妻の意見に従うしかないのか・・・。合掌。

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2006年11月11日 (土)

青春とオヤヂの関係『夜のピクニック』恩田陸

P1_19その本を読み始めたのは、オークラ・アクトシティ・ホテル浜松のカフェ・レストラン。途中の車窓までは爽やかな秋晴れだったのに、新幹線のホームに降り立つと、突然の夕立。傘を持っていなかった私は、途方に暮れた。妻との待ち合わせまで時間はたっぷりある。駅から濡れずに行けて、遅くまで開いている店を探す。結果的に、そこしか選択肢はなかった。そこで、生ビールと、クラブハウスサンドと、サラダを注文し、読み始めた。店に客は誰もいない。朝食ビュフェの会場にもなる大きなレストラン。がら~ん、と擬音が背景に入りそうな空気。微かに聞こえる程度のBGM。ゆったりしたソファ。読書には最適だ。

「その本は、面白いですか?どんな話なんですか?」突然、ビールを運んでくれたスタッフの女の子に、そう尋ねられた。面白いかと言われても、読み始めたばかり。焦った私は誠実に答えようと、精一杯努力する。「高校生たちの話。読み始めたばかりだけど、面白そうだよ」まぁ、及第点の答え。すると、ホッとする間もなく、「もう映画は観られました?」「いや、まだだけど」(そう言えば映画化されてたなぁ)「原作を読んでから映画観る方なんですか?」「映画を観た後で原作読むと、映像に影響されるから嫌なんだよね」「そうですよね」・・・と、すっと立ち去る。おいおいっ!中途半端な立ち入り方だなぁ!

ところで、作品の内容と言えば、全校生徒が80キロの道のりを夜を徹して“ひたすら歩く”、“歩行祭”が舞台。経験していないのに、なぜか懐かしいイベント。自分にとっては遠い過去なのに、身近に感じてしまう高校時代。暖かく、意地悪で、優しく、計算高く、純真で、賢く、初々しく、心地良い主人公の高校生たちの会話。彼らのまっすぐな視線を感じるシーン。思わずにやりとしてしまう。遠い目になってしまう。読んでいる最中なのに、また読み返したくなる。妻が乗る新幹線が到着するのは2時間後。待ち合わせまでの時間の長さを忘れて読み耽った。ビールのお代わりを忘れるぐらいに。

「これ、かなり面白いよ」空になったグラスを下げにきたスタッフの女の子に、素直に感想を伝えた。「じゃあ、読んでみます」・・・そんな短い会話もなんだか嬉しい。高校生になったような、軽やかな気持の、元気なオヤヂ。「それにしても、お店、気持ちよく空いてるねぇ」「そうですね、(ちょい怒)失礼します」・・・調子に乗ってしまったオヤヂの失言でした。あぁ、思い出した。いつもひと言多い、知らずに人を傷つける、そんな高校生だったなぁ。(「今でもそうだよ」と、妻)でも、この本は読んでね。

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2006年10月28日 (土)

甘さ控えめ『太陽待ち』辻仁成

P1_18しばらく読むのを避けていた作家がいる。気に入ると全作品を読む傾向にあるため、読後の評価には当たり外れがあり、外れが続くとしばらく離れてしまう。決して中山美穂ファンだったため、僻んだり逆恨みをして読まなくなった訳ではない。(どちらかと言えば、舞台で良く観る機会があった南果歩の方が好きだったぐらい)最初の一冊『ピアニシモ』は、ミュージシャンが書いた割には巧いじゃん、ぐらいの感想。ECOHESの辻仁成(つじ・じんせい)としての評価。

それが、『海峡の光』や『白仏』あたりで、作家辻仁成(つじ・ひとなり)として、大きく評価が変わった。抑制が利いた文章で書き綴られた、ちょっと苦めの物語が好きだった。ちょっと気取ったスタイルも、“元?ミュージシャン”だしなぁと許せた。『白仏』のフランスでの高い評価や、フェミナ賞の日本人としての初受賞は、読者としてかなり嬉しかった。(村上春樹がノーベル文学賞を逃したのは、残念だったけど、何故かちょっとほっとした)なのに、江國香織との企画小説『冷静と情熱の間-Blu』あたりから甘さ(LooseとかEasyではなくSweet)が気になりはじめ、あざとさを感じるようになり、『彼女は宇宙服を着て眠る』などいくつかの作品は、途中で挫折。しばらくの期間、距離を置いていた。

そして、久しぶりに手に取ったのが『太陽待ち』。導入部分で甘さが気になったものの、それもすぐに解消。あっという間に現在と過去、東京と広島、北海道と南京、それらを繋ぐ不思議な空間が作る魅力的な世界に閉じ込められてしまった。読み終えて自分の現実に戻るのが惜しいぐらいの一冊。新宿で撃たれ、昏睡状態の兄の“魂”が空間や時間を飛び越えて、現実と夢想を結びつけて、人と人を出会わせる。矛盾や不整合は気にならず、かなりの長編にも関らず、一気に読ませる力を持っている。満足。

妻にも薦めたが、まだ半信半疑。手に取ってはくれない。「だって『嫉妬の香り』もつまらなかったし・・・」彼女は徹底的に甘さを嫌う。(チョコやアイスは大好きなのに)甘い恋愛描写は読むスピードを鈍らせるらしい。そして同じ“甘い”という理由で江國香織も苦手。「最近は、<グレッグ・ルッカ>が面白いよ。『守護者(キーパー)』でデビューした若手でね。『耽溺者(ジャンキー)』とか『暗殺者(キラー)』とか、読んでみたら?」プロのボディ・ガードを主人公にした人気シリーズ。・・・辛いもの大好きの妻。確かに本のタイトルも辛(ラー)そう。

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2006年10月 9日 (月)

景山さんを連れて「ウー・マイナー」

P1_11その駅に降り立つと、ふと思うことがある。もう新しい作品が読めないんだなぁ、と。つくづく残念。ただ、その長躯で飄々とした雰囲気のまま、通りの角からすっと現れそうな“存在感”が、この街にまだ残っている気がする。直接お会いしたことはない。しかし、TVの画像からはみ出しそうな、彼の文庫の紹介文にある“長身にして多才な人”を絵に描いたような、その姿が今でも目に浮かぶ。純粋で、照れ屋で、優しく、正義感溢れるエネルギッシュな人。景山民夫さん、1998年没。享年50歳。

台風が秋雨前線を刺激し、日中一杯続いた暴風雨が止まないまま、成城の街も夜になった。新しくできた駅ビルは、まだこのお屋敷町の街並に似合わない。強風のためか、雨が吹き込むコンコース。傘をささなければいけない吹き抜けのエスカレータ。ちょっと苦笑い。その街に住むスカッシュ仲間の友人と、開店したての駅ビルの中華レストランで一緒に食事をし、家に帰ろう店を出ると、タクシー待ちの長蛇の列。「もうちょっと飲んで行く?」と彼女。「あの店?」望むところだ。

この街には、規模の割には飲食店が少ない。それも夜遅くまで営業している店は皆無に等しい。そんな街の中で、ワイン・バー<ウー・マイナー>は貴重な店だ。ただし、この店は、いつ行っても「CLOSED」の札が掛かっている。“一見さんお断り”と、やんわり(はっきり?)主張している、ある意味“嫌な店”。その日も「やってるかなぁ。マスターわがままだから、この雨じゃやってないかもねぇ・・・」と友人が心配しながら店内を覗く。「あ、やってる!こんばんは~」とドアを開ける。先客は常連の女性一人。カウンタだけの小さな店は、我々3人が加われば、もうほぼ満員状態。居心地の良い隠れ家。

マスターは、彼女の結婚20周年記念ホームパーティでも(もちろんこの店でも)お会いした地元の酒屋さん。客と話し込み、友人のように(友人なのだけど)客に接する。その夜も、話題は娘の話、パリに出張中の友人(夫)の話、そしてこの店の常連だったという景山さんの話。「大ファンだったんですよ」「ウチの店も何度か作品の中に出てきたらしいよ。何ていう本だったか忘れちゃったけど」「ほとんど持ってるよね、彼の本」「彼はいつもその席に座ってたんだよね」マスターが私の隣の空いているスツールを指す。ガタッガタとドアが鳴り、カウベルの音。「あれ?彼来たんじゃない」「民ちゃん、たまに店に来るよ」「えぇっ!会いたい!ちょっと誤解された最期は残念なんですよねぇ」・・・景山さんのエピソードをいくつも聞きながら、嵐の夜が更けて行く。「そろそろ帰るね。景山さん、連れて帰って良い?」ガタッガタ。ドアが鳴る。一緒に帰って、もう少し語りましょうか・・・。

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2006年9月16日 (土)

リゾートには不向き?『半島を出よ』村上龍

P1020787珍しく結論から言う。お薦め。実に読み応えのある良い本だった。やはり力のある作家だなぁ、村上龍。久しぶりに発売前から気になっていた作品だった。装丁は鈴木成一デザイン室。これもチェックポイント。福岡市上空からの空撮写真にヤドクガエルの写真が生々しく貼り付く。上巻の青、下巻の赤は、村上春樹の『ノルウェーの森』の赤とグリーンの装丁に通じて、ちょっと不安。

・・・でも、それは杞憂に終わった。良かった良かった。なんせ、旅先に持って行くには、実に重いのだ。この上下巻2冊。発売後しばらくして購入し、リゾート用に本棚に保管。楽しみにしていた。なんとなく予感があった。これは外れないだろう、と。『コイン・ロッカー・ベイビーズ』を筆頭に、『トパーズ』『ワイン1杯の真実』『69』など、好きな作品が結構多い村上龍。でも、外れるときは思いっきり外れる。(ファンの方、ごめんなさい。私に合わないという意味です)途中で放り出したくなるほど。ヒットの打率は3割程度。野球の世界で言ったら立派だけど、真からの愛読者とは言えない私にとっては物足りず、とても著作全部を読む気にはならない。しかし、これはセンター方向、バックスクリーンに飛び込む大ホームラン!

P1020259今年だけで10回以上出張で往復している、馴染みのある博多の街が舞台。出張でも宿泊したことのあるシーホークも重要な場所になっている。土地勘があるのも楽しめた要素のひとつ。そして何よりも、緻密で膨大な取材の結果、リアリティある描写が隅々まで溢れていたこと。一気に読ませる巧みな構成。彼の国以外で<テポドン>と勝手に呼んでいるミサイル発射実験が失敗に終わった今年、首相のリーダーシップを改めて問われるこの国で、地方と首都圏の、持てるものと持たざるものの格差が話題になるこのタイミングで、読むに相応しい一冊。読後感も珍しく爽やか。

しかし、ちょっと重量だけでなく、テーマが重いのも事実。お気楽妻は、お気楽リゾートで読み終えるのを諦めた。しかし、100ページ弱ぐらいで断念するのはどうかなぁ?そこからだよ、あっという間に面白くなるのは。「だって登場人物多すぎ」・・・まぁ、そうだね。「なかなかストーリー進まないし」・・・最初はね、後半のスピード感は凄いよ。「人は死なないし」・・・後半になると、凄いよ。日本海を彼の国の船団が博多湾を目指すシーンなんて、想像するとドキドキするよ。「映像を想像しない本読みだからなぁ」・・・まぁ、あなたはそうだったね。「ひろべくんの『サイドウェイ』の方が、リゾート向きだよ」・・・そうは思います。とは言え、ぜひ!

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2006年8月 5日 (土)

ヴァカンス本「Sideway サイドウェイ 建築への旅」

P102sideway人は、何者かに自然になるのではない。何者かになるために、思い、悩み、学び、努力し、そして何より、それを継続し続けることで、“何者”かになっていく。大人になるにも、年齢を重ねれば“自然に”なれるものでもないように。かと言って<通過儀礼>を経れば良いということでもなく。人生を旅に例えるなら、分岐点に立って進むべき方向を選択する、あるいは選んだ路を確かめる、という“ポイント”は、確かにやって来ることがある。そして、“幸運”という名のパートナーが、一緒に旅してくれることもある。

ようやく真夏の陽射し。暑い日が続くけど、私は元気。湿度が低く、カラっとしていれば汗をかいても平気。部屋の中を渡る涼風が心地良い。日中からビールが飲みたくなる。良いよね、昼下がりのビール・・・って感じで、一気に気分はヴァカンス!2週間後には、遠く南の島でライトなビールを飲みながら、パラソルの下でのんびり本を読んでいる、はず。ふふふふ、楽しみである。南の島向きの“ヴァカンス本”を探すことも、お気楽夫婦にとっては旅の始まり。今年の夏は、こんなラインナップ。

常連のロバート・B・パーカー「ダブルプレー」は、キリッと冷えたジンのロックを飲みながら。これは夏のお約束。続いて、当り外れが大きい村上龍。「半島を出よ」の上下巻2冊は重いので、ぜひ外れないで欲しい。妻が選んだのは、ジョン・クリストファー「トリポッド」4冊。まぁ、夏休みってことで。そして、夏休み課題図書的と言えば「十五少年漂流記」。なぜか猛烈に読み返したくなった、私が選ぶ“無人島に持って行きたい一冊”。「不思議の国のアリス」もヴァカンス用に文庫本を購入したが、持って行くかは極微妙。そして、最近妻もお気に入りの奥田英朗。「邪魔」「最悪」もヴァカンス前に読んでしまうのを我慢できれば、持参予定。

そして、そんなラインナップに追加の一冊。友人、ヒロベくんの、初出版。白い装丁に爽やかなブルーのタイトル。読了後にブログの記事にする約束だったけど、撤回。<はじめに>という書き出しの章を読んで気が変わった。今読まずにヴァカンスに持って行くべし。彼の穏やかな眼差しを通じて撮影された写真、描かれた美しいスケッチ。何よりも<建築>への想いが溢れている。そして、旅愁を誘う、文字通りの旅の本でもある。「なんだか、村上春樹の「遠い太鼓」に、雰囲気が似てるね」ハルキストの妻が言うのだから、これはかなりの賛辞。旅先で、ヒロベくんの目を通した“もう一つの旅”を楽しめそうだ。

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2006年6月25日 (日)

ほんとは怖い?「ジャックと豆の木」

0ちょっと前に(私は読んでないが)『本当は怖いグリム童話』という本がベストセラーになった。日本でも童話や童歌は怖い内容が多い。『通りゃんせ』とか、『ずいずいずっころばし』『かごめかごめ』などは、歌詞の意味をどう解釈するか諸説あるが、不穏な空気が間違いなくある。だって、“行きはよいよい、帰りは怖い”って、そのままだし。『かごめかごめ』の“後ろの正面”に至っては、いろいろな解釈があるけれど、未だに私は歌詞の意味を考える度に鳥肌が立つ。

『ジャックと豆の木』は、好きな童話だった。天まで届く“豆の木”は、子供の頃の私の想像力を刺激した。一夜の内に天まで伸びた豆の木・・・、天の巨人の昼寝・・・、その巨人の金貨を盗む・・・(少年犯罪か?)、金の卵を産むガチョウ・・・、最後は巨人が豆の木から落ちて死ぬ?・・・断片的にではあるが、そんなことを私に思い出させたのは、九州出張の折に偶然読んだ地元新聞の記事。博多のファッションビルの草分け<IMS>の吹き抜けに“ジャックと豆の木”のオブジェが出来たという。翌日、午前中の仕事が早く終わったため、さっそく行ってみた。・・・それにしても、この“ジャックと豆の木事件”を裁判員として選出されて審議する立場になったら、窃盗と過失致死で有罪だなぁ。

<IMS(イムズ)>は完成時に、カーブのついたエスカレータとか、地下2階から8階までの吹き抜けが話題になったお洒落なビル。(そう言えば、OPEN時に仕事で訪れ、全館のレストランが終日無料という、今思えば夢のような内覧会にも出席した)相変わらずきれいな受付のお姉さんを横目に吹き抜けを望む。ほほぉっ!予想よりすごいスケール。吹き抜け一杯に伸びた豆の木。白い雲も浮かんでいる。ジャックが豆の木にへばりついて登っている。ふぅむ、なかなか良い感じ。子供の頃に実現できなかった夢を、大人になったアーティストがつい作ってしまったという“大人買い”にも通じるオブジェ。

昔読んだ本をつい読み返してみたくなるのは、こんな時。同時にいろんな童話や子供向けの作品を思い出す。『星から落ちた小さな人』は佐藤さとるさん作のコロボックルの童話集。心温まるストーリー。イラストも好きだったなぁ。『北極のムーシカ・ミーシカ』は、いぬいとみこさん作のホッキョクグマの話。『いやいやえん』『夜の動物園』『せむしの仔馬』・・・。ん?“せむし”って、何だ?『ノートルダムのせむし男』、の“せむし”と一緒?とすると、差別用語?そんなことを知らない、というのも怖い。すると、本当に怖いのは、無自覚だということなのかなぁ。(ジャックの犯罪を楽しんで読んでいたことも?)

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2006年4月30日 (日)

ルパン、記号、トム?『ダ・ヴィンチ・コード』ダン・ブラウン

P10_3ベストセラーを避ける傾向にあるなどと言いながら、つい読んでしまった本がある。話題というより、ブームの感もある『ダ・ヴィンチ・コード』。そういえば最近、出張が多いせいか読書量が増えている。(通勤途中で読むこともあり、必然的に文庫)『イン・ザ・プール』奥田英郎、『東京タワー』江國香織、『玉蘭』桐野夏生、『プレイ -獲物-』マイクル・クライトン・・・って、ほとんど“売れ線”の作品じゃん!と、乗せられやすいミーハーぶりを自覚する。

幼い頃、モーリス・ルブランの<アルセーヌ・リュパン>(当時は“ルパン”表記)シリーズが好きだった。新刊が出る度に、親にせがんで買ってもらい、貪るように読んだ。『奇巌城』『八点鐘』『黄金三角』『虎の牙』・・・タイトルを目にするだけで、子供の頃のワクワク・どきどき感が蘇る。パリとその周辺の街を舞台にした冒険物語。セーヌ河畔、シャイヨー街、ル・アーブルなどの地名に夢想が広がった。同時代のシャーロック・ホームズが登場したりする設定も、子供ながら不思議で、興味深かった。(なぜ他の作者の著書の登場人物が?!)リュパン派だった子供の頃の私は、ホームズは一冊も読まなかった。

『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで、そんな記憶が呼び覚まされた。パリとロンドンを結ぶダイナミックな場面展開、登場人物の裏の顔、中世から続く謎の組織、隠された秘密を暴こうとする主人公、それを助ける謎めいた女、その女性の数奇な運命、一筋縄ではいかない暗号(記号)の数々・・・。リュパンの設定そのもの!そうかぁ、読んでる途中で感じた、どこか懐かしい“ワクワク感”は、そんなところから来ていたのかもしれない。

思い出せば、NYCの友人に去年のロンドン・パリを訪れた夏の旅行を“ダ・ヴィンチ・コードを巡る旅”?と尋ねられた。やっと意味が分かった。去年ハードカバーで読んでいたら・・・。ちょっと惜しいことをした。それにしても、映画化されたり、解読本・関連本が出たり、長い長い世界的なブーム。映画公開直前に文庫化するというマーケティング戦略に、上手く乗せられて読んでしまった訳だ。毎週楽しみにしているTXの番組『美の巨匠たち』でも、2週間にわたってダ・ヴィンチを取り上げていた。う~む。どうしても私に『ダ・ヴィンチ・コード』を観に、映画館まで足を運べ!と画策しているようだ。(皆に対して画策してるんだけどね)乗せられついでに観に行くかぁ。でも、トム・ハンクスは好きだけど、主人公のラングドンとはイメージが違うんだけどなぁ・・・。ぶつぶつ。

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2006年3月25日 (土)

ベストセラーはお好き?『博士の愛した数式』小川洋子

p10ベストセラーと呼ばれた作品を意識して避ける傾向にある。『世界の中心で、愛を叫ぶ』などは、絶対読むものか!と今でも誓っている。片山恭一さんに恨みがある訳でも、他の作品を読んで気に入らなかった訳でもない。映像やマスコミが作り上げたベストセラーというイメージが先行し、嫌だった。かつての角川映画と角川文庫の関係のように。ドラマ化されて、後からベストセラーになるという場合も、原作が好きだったのにドラマが「?」という内容だと、原作を読んだ時間まで遡って嫌いになったりもする。“あざとさ”を嫌う、正義感溢れる男なのだ。・・・って正義感ということばを誤用してるけど。

しかし、この本は逆だった。寺尾聰の博士が気になり、(ダイワハウスCMで教授として「なんでダイワハウスなんだ?」とつぶやく姿も重なり)無性に読んでみたくなった。「ぼくの記憶は80分しかもたない」という惹句も気になった。(寺尾風に呟いた。「どういう意味なんだ?」)そして、最初の1Pめ、最初の1行で、小川洋子さんの世界、“博士”と“√”と“私”の世界に魅せられた。先が読みたくて、でも物語は終わって欲しくない、と思う一冊。博士と√の友情に笑みを浮かべ、博士の義姉にやきもきし、最後の数ページで成長する√の姿を描く場面では、涙してしまうという“感情移入”の極み。・・・参った。

私は数学が苦手だった。“感情”や“表現”の入り込む余地のない、数式が嫌いだった。対数などは「実生活で、何に使うっていう訳?絶対使うことないじゃないか!」と八つ当たりした。なのに、この一冊の中に登場する数々の数式や定理は、博士の口から出てくると不思議と愛おしく、柔らかく、温かく、すっと頭の中に入ってくる“美しい存在”になる。この本に中学生の頃に出会っていたら数学嫌いも多少緩和されたかもしれない。惜しいことをした。(もちろんその頃には、まだ書かれていなかった訳だが)

ロードショーではもう上映していないが、映画も観たい。しかし、ここで問題が残る。“√”だ。彼は、どんな子役が演じるのか。自分のイメージと違う場合、原作まで遡って嫌いになるのが怖い。「ん~、どうしよっかなぁ。観たいけどなぁ。下高井戸シネマあたりで観る?」「ん?観ないよ。地味そうだし。アクションもないし。人も大勢死なないし。楽しくないと映画は観ない。それに、原作とイメージ違うって私の場合ないし。本を読んで自分で映像をイメージしないから」・・・今日は妻のセリフが長い。けど、持論はいつも通り。

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2006年3月21日 (火)

GO!GO!ニッポン!『GO』金城一紀

P1010272お腹を壊した。子供の頃からお腹の弱い私には、良くあることだが、今回はひどい。2日間下痢が続いた。会社を休んだ。何も食べずにぼーっと過ごす。体重が3kg減った。・・・下痢ダイエット。余り楽しくない減量法。WBC準決勝、<日本VS韓国>の映像を何度も、何度も観た。読みかけの金城一紀『GO』を完読した。いろんなことを考えた。お腹に力が入らないので、思考は散漫だったけれど。

WBCの報道の中で何度も聞いたイチローの発言に、ざらっとしたものを感じた。勝利に向けてチームを鼓舞する意図ではあろうが、違和感を感じた。彼は意識してはいないのだろうが、韓国に対する“優性”的な感覚や、無自覚な“差別”。直接そんな教育を受けたわけではないのに、いや、逆に正しく教育を受けていないために持ってしまう潜在的な意識。“単一民族”とか、“万世一系”とか、戦前の教育を受けた世代に染み込んだ誤解が、この国の地下水脈を汚染し、今の世代までに伝わってしまっている。なぜ在日コリアが“外国人登録証”を持たなければいけないのか、“国”とは何か?“国籍”とは何か?“民族”とは何か?“人種”とは何か?

無意識、無自覚なための、あるいは知ろうとしない事による罪がある。『GO』の爽やかな読後感と共に、そんな思いが残る。学校で教育を受けなくても、今の日本では知ろうと思えば“知る”ことはできる。自分の祖母のルーツを知って“韓国”を意識した鷺沢萠『ケナリも花、サクラも花』、自らの大陸の血を自覚した伊集院静『海峡』三部作、従軍慰安婦への思いを記憶の奥に閉じ込めた父の描写が印象的な村山由佳『星々の舟』、在日の美しい少女への思慕を明るく描く、井筒和幸監督作品『パッチギ!』等など、文学・映像作品を通じて、日本(人)のやってきた事、やってこなかった事を知ることができる。

類似嫌悪、近親嫌悪に近い感情を、この隣国同士で抱いている現実。皮は黄色なのに実は白い“バナナ”と例えられるように、自分達以外の黄色人種を卑下し、白色人種にコンプレックスを持ち続けた、明治維新以後の日本文化の志向性が根底にある。私の中途半端な知識と記載では誤解を受けてしまう深い問題ではある。でも、知ろうとすることは大事。知った上で好き嫌いを判断したい。そして、良い意味でライバルでありたい。ところで、今日は<日本VSキューバ>の決勝戦。せいぜい高校野球で地元の高校を応援する程度の(?)ナショナリズムを発揮しよう!・・・あれれっ!?今日は“落ち”がない!

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2006年3月 4日 (土)

定期購読?『R25』

mag_cover_bn同僚のTくんから初めてその雑誌を手渡された時は、一瞬何のことか分からなかった。会社の最寄り駅の通路ですれ違おうとした時に、にこやかに「どうぞ!」と渡された『R25』。誌名の由来は、「R(Restricted)」指定。25歳以下閲覧禁止のフリーペーパー。首都圏で毎週木曜日に発行されている。駅のコンコースなどの専用ラックに設置されるとすぐになくなってしまう人気の雑誌。発行部数60万部。ますます有料の雑誌が売れなくなる。いや雑誌が売れなくなったから広告で成立する雑誌を作った、というのが正しいのだろう。3月中には『R17』と『R22』という別冊も発行されるらしい。

「自分では手に取れないんだよねぇ。発行してる側だったら、オヤジは読まなくて良いよ!って、自分に突っ込み入れると思うから。面白そうなんだけどなぁ、と思いながら読んだことないんだよね。Tくん、あれ取ってきて、読んだら貸して!」「分かりました!」取引先に同行した時に、駅の構内に並んでいたその雑誌のラックを眺めながら、彼とそんな会話したことを思い出した。それを覚えていて、外出した際に持ち帰り、私に渡そうと手にしていたらしい。・・・ふふふふふ、愛いやつよのぉ。

そうなのだ。前の会社の時に身に付いた、本屋に行ったら雑誌は大切に扱う、という習慣が抜けない。広告の入り具合をチェックする癖も。(奥付のスタッフのチェックも。幻冬社の新創刊誌にOBを発見)だから『R25』も、創刊のときから、クライアントや広告営業担当者のことを思い、ターゲットゾーンと違うしなぁ・・・と手に取れなかった。手を出そうかと決心し1つめのラックを通り過ぎ、次でピックアップしようと思うと1冊も残っていない、ということが続いた。やっぱり私に読むなってこと?と僻んでいた。

ところが、最初の1冊に喜んだ私のために、Tくんが自主的に毎週配達してくれる。もちろん業務命令ではないから休刊(休配)もあるが、今週も定期購読誌のように『R25』が届いた。ひとつの記事は約800字。私の記事と同じぐらいの長さ。いかに気軽に読んでもらえるか、さらっと読み流せる量を私もこれぐらいと思って書き始めた。(最近はちょっと長めだけど)書きたいことはたくさんあって、それをいかにコンパクトにするか。そんなことを考える週末。楽しい時間。そして、『R25』は広告収入で、私のブログは「今週の記事、面白かったよ」と言われることで、成り立っている。・・・え?催促してないよ。

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2006年1月 8日 (日)

今年の一冊め『トワイライト』重松清

P1000947年末年始、妻の実家に3冊の本を持っていった。『冷たい銃声』ロバート・B・パーカー、『蝉しぐれ』藤沢周平、そして『トワイライト』重松清。正月を妻の実家でのんびり過ごそうという計画。一昨年、妻の両親は長年住んだ一軒家を手放し、マンションに引っ越した。駅から近いし、バリアフリー。南向きのリビングは明るく暖かい。今話題の耐震性や、セキュリティなど、彼らの本格的な老後に向けて考慮した結果。ちょっと安心。そして、お気楽夫婦にとっては、別荘気分。お正月休みに、のんびり読書という目論見だ。

妻は一人娘。両親も妻も口数は少ない。3人で過ごす時は、誰も何も話さずにボーっとしていても平気らしい。ドライブをする車の中でも同じ。ロングドライブでも、ずっと会話がないまま、というのも気にならないという。ところが、私は沈黙が怖い。まして密室である車の中で、誰も何も話さない時間は苦痛。そこで私はドライブ中に3人に均等に話題を振る。リビングでも、外食をする店でも同様。読書に没頭し、話しかけるのを忘れ、3人が何も話さずにぽかぽかとしたリビングルームで、黙ってTVを観ているのに気が付く。おっとぉ、いけない。慌てて観ているTV番組に関連する話題を提供する。・・・ふぅ。

決して必要以上に気を遣っている訳ではない。ただ“団欒”の規定値が違うだけ。黙っている3人にとっては、私が加わる4人での行動は「それはそれで楽しい」らしい。だからと言って3人でボーっとしているのも楽しくないわけではない、そんな家族。今回の滞在では、敢えて本を読み続けた。気が付けばこれが読書に適している環境なのだ。私が何も言わずに本を読んでいても、誰も突っ込まない。邪魔しない。邪魔にならない。

重松清は、ほぼ同年代の作家。育った年代が近い分だけ、視点や記憶が重なる部分も多い。『トワイライト』は、1970年の大阪万博をキーワードにした物語。“未来”が一直線に“明るい未来”まで伸びていた時代。性善説の時代。現在との対比、コントラストが明確になり、自分たちの“現在”を実感してしまう。しかし、重松の紡ぐストーリーにはいつも救いがある。現実の“痛さ”と共に、ほろ苦いけれど明日に続く“暖かさ”がある。

一気に読んでしまった暖かいリビングで尋ねた。「万博って行きました?」「愛知万博は行かなかったねぇ。混んでるのは苦手だからねぇ。」「大阪のときは行ったね。日帰りで2回も行ったよね。そうそう、“月の石”並んで観たよね。」・・・話題を提供すれば反応はする。会話も適当に弾む。これも悪くはないか。

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2005年12月10日 (土)

愛しの“らもさん”「今夜、すべてのバーで」

P1000753渋谷の劇場に勤める“飲み友だち”の、Kさんにもらった一冊が、らもさんとの出会いだった。本のタイトルが、“酒好き”(これは誉めことばだと思っている)を彼女に認められたようで、妙に嬉しかった。・・・ところで、中島らもって、小説も書くんだ。ふ~ん、と読み始めた。なのに、あっという間に“らもワールド”引き込まれた。

アル中で(正確には肝硬変)入院した経験を基に描かれた“酔いどれ”小説。客観的に自分の症状を眺めたり、飲まずにいられない理不尽を嘆いたり、諦めたり。しかし、その飲み方が凄い。入院を宣告された直後、最後の一杯としてワンカップ2本だぁ?入院した病院の霊安室でエチルを飲むだぁ?おい、おい。なのに、悲惨な気持にならない。爽快ですらあるのだ。

中島らもという名前は、知っていたし、気になる存在だった。彼が主催していた「リリパット・アーミー」という劇団の芝居は一度観てみたいと思っていた。また、「ぴあ」と「プレイガイドジャーナル」に連載されていた「微笑家族」というタイトルの4コママンガも、私の“好奇心センサー”を刺激していた。“カネテツデリカフーズ”の1PモノのCMだったのだが、商品とは全く関係なく、“てっちゃん”と“おとうさん”が登場し、シュールな会話を発し、なんとなく終わる。う~ん、さすがカネテツ、“関西魂”溢れる会社やなぁ・・・と。

そして、妻を巻き込んで、リリパの芝居を観るようになり、らもさんの著作を読み漁った。さらには、芋ヅル式にわかぎえふの著作を読み、「ラックシステム」「アガペーストア」「G2」と、蠱惑的な秘境都市“NANIWA”に迷い込んでしまうことになった。実は過去にも一度、関西系芝居に染まりかけたことがあった。かつての同僚であり、今は主にRUPで演出をしている岡村俊一くんの影響で、筧利夫、池田成志らが出演する(主に“つかこうへい”)芝居を観ることが増えた。が、「劇団☆新感線」を経て、還ってきた。・・・関西の“濃さ”に心からは馴染むことができなかった。全てを照らして影ができない芝居が苦手だった。関西の“おちゃめさん”たちの元気さ加減についていけなかった。

それに比べ、らもさんはNANIWAのおばちゃんオヤジだった。それが、東京のおばちゃんオヤジの私にフィットした。ステージでボンヤリと佇んでいるだけで魅力的だった。実に、愛すべき存在だった。憧れてさえいた。・・・あの世でも、酔いどれてるんだろうなぁ。

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2005年11月 5日 (土)

愛しのポンちゃん≒AMY≒山田詠美「PAY DAY!!!」

P1000673毎回、このシリーズが出ると、「同じ人が書いたとは思えない!」二人でそう呟くことになる。そして、二人とも大好きな作家、AMYの「熱血ポンちゃん」シリーズは、南の島の旅行まで取っておきたいのに、ついすぐに完読してしまう。そう、お気楽なこのシリーズは南の島のエー加減な気分にぴったり。朝からビール飲んでも良いんだもんねぇ、シャンパンだって飲んじゃうもんねぇ、えぇいっ、私だってフレッシュオレンジジュースお代わり!だってヴァカンスじゃん!てなもんである。

ところが、このポンちゃん、なかなか凄い作家“山田詠美”でもある。デビュー作からほとんどの著作を読んでいるのだけれど、その登場人物が、実に魅力的。彼女の文章からは、生身の人間の体温、香り、肌触り、心や身体の“痛み”、街の匂いなどが、リアルに伝わってくる。(妻は乾いた筆致が好きだと言う。)知っての通り、彼女の作品の登場人物にはブラックアメリカンが多い。なのにバリバリの日本人の私にも違和感なく読めるのは、彼女の友人関係の産物であるだけではなく、彼らに対する愛情と敬意の表れなのだろう。触れたことのない世界なのに、決して現実から浮いていないことが分かる物語。

彼女の作品群の中では、ちょっと異色の「風葬の教室」も良い。子供の、日本の、物語。ジェシーや、ココや、スプーンは一切登場しない。でも、確実に山田詠美の風味。(そう言えば、かつてマンガマニアだった私は、なぜか彼女の“山田双葉”時代のマンガも偶然読んでいる。「だっくす」というまんが専門誌に掲載された、永遠に売れそうもないタッチのエロな作品だった)

かと思うと、「PAY DAY!!!」のように、9.11を背景に扱いながら、アメリカの“今”を暖かい眼差しで描きあげることもやってしまう。ロビンとハーモニーという双子の兄妹の章を交互に綴りながら、NYCと南部の町ロックフォートを描く。そして、各章の最後は「PAY DAY!」というワードで韻を踏む。さらに、最終章はロビン&ハーモニー、そして家族の物語で締めくくる。まいっちまうぜ、AMY!泣きそうになっちまった。文庫本の解説に「山田詠美の握力は強い」と、書き始める豊崎由美さんに同感。すっかり彼女の作品に、がっちり鷲掴みにされてしまっている。IGA&妻にとって、山田詠美も、AMYも、ポンちゃんも、愛すべき大事な存在なのだった。

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2005年8月18日 (木)

読まず嫌い返上「浅田次郎」

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「鉄道屋」を最初に読んでしまったのがいけなかった。あざとい“泣かせ”に偏見を持ち、見た目の任侠小説家的風貌と相まって勝手なイメージを作って しまった。これは自分が読む作家ではないと判断した。そんな訳で、彼はしばらく遠い存在の作家だった。海外の作家を読むことの多い妻などは嫌悪すらしてい た。

ところがある日、混んだ通勤電車で、他人の後ろから覗き込み、“立ち読み”をするという、たまに見かける嫌な乗客に なった。つい引き込まれたその物語は、死んでしまった中年男がなぜか美女の姿で蘇り、自分の身体を不思議そうに眺めるという場面だった。・・・面白く、他人がページをめくるスピードが じれったい。書名が分からないまま、自分の降りる駅に到着。残念。そこで部下の女性に概要 を話し、夫(読書家の編集者)に調べてもらうよう頼んだ。この程度の情報では分からないだろうと思いながら。彼女が「聞いておきまぁす。」と 言った翌日、見事判明。感謝!いろいろな人材がいるものだ。書名は「椿山課長の七日間」、作者は浅田次郎。

浅田次郎と判ったため少し迷いつつ購入したものの、あっという間に読了。期待以上の面白さ。へぇ、泣きだけじゃなく、笑いもあるんだ。その後、同 じ作家を追いかける傾向にある私は、かたっぱしから浅田次郎の著作を読んでいった。「プリズンホテル」「地下鉄に乗って」「霞町物語」「シェエラザー ド」・・・面白い。幅広い作風。そして何冊目かに出会った「蒼穹の昴」。これには、まいった。近代中国、清の時代を描きながら、時空を超えて今もどこかに 存在しているような魅力的な人物たち。西大后、科挙、宦官・・・歴史の教科書でしか馴染みのなかった存在が身近に感じられる物語、構成、文体の巧さ。全4 巻の残ページを惜しみつつ、でも先を読まずにはいられずあっという間に読み終えてしまった。浅田次郎と歴史小説への偏見が一気に氷解した。

今では薦めたらはまってしまった妻と共に、すっかり浅田次郎ファン。「天切り松」シリーズは永遠に続けて欲しいと願うばかり。彼の禿げた頭ですら今は愛おしく、極道もの作家時代の作品も読み返すぐらいの、勝手なやつらだった。

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2005年6月18日 (土)

わが青春の薫ちゃん「赤頭巾ちゃん気をつけて」

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同僚が酔って言ったことばに、10代の自分を思い出した。同じ世代なんだなぁと実感した。 「東京に出てきて初めて行ったのは、銀座の旭屋書店なんだよね。」 小説のクライマックス。フンダリケッタリのダメ押しに、小さな女の子が 薫くんのゴム長の足を踏んでしまう場面。それが旭屋の前。 ・・・カナリア色のリボンの小さな女の子のために、“赤頭巾ちゃん”を選んであげる本屋。 その他にも、薫くんがゴム長を履いて辿った道を探して歩く、“追っかけ”をやった、のだそうだ。 数寄屋橋交差点、ソニービル、三愛、並木通り、電通通り・・・。

そんなことを書いても何のことやらさっぱり分からない人のほうが多いだろう。 実は私も世代的には違っている。 でも、その小説は猛烈に売れたのだ。・・・庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」。 昭和44年8月に初版。私の持っているは、昭和48年11月に増刷された47版! 「赤頭巾・・・」「さよなら怪傑黒頭巾」「白鳥の歌なんか聞こえない」「ぼくの大好きな青髭」の 赤・黒・白・青、東西南北の鬼門の色の四部作。全ての主人公が作者と同じ名前、庄司薫くんだった。 最後の“青”を書き、いくつかのエッセイを世に出した後、“総退却”した薫くん。 ピアニストの中村紘子さんと結婚した彼は、今は70歳近くのはず!(そんなばかな!という感じ。)

高校時代に、同じ“部活”の仲間に、良く本を読む女の子がいた。 私が図書館で借りる本のカードには、たいてい彼女の名前があった。 その中に薫くんシリーズもあった。卒業後になんとなく手紙のやり取りが続いた。 学生のアパートには電話などない時代だった。 捉えどころのない焦燥感を持て余し、それを吐き出すように分厚い手紙を書き送った。 若気の過ちで、その手紙で彼女を傷つけ、連絡が取れなくなり、時間だけが経った。 今だったら、どんなやり取りができたんだろうな。 消息の消えた“庄司薫”の名前を本棚に見る度に、そんな気持がよぎる。 ・・・恥ずかしいぐらい青い、お話。

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2005年6月17日 (金)

憧れのバニー「PLAYBOY」<日本版>

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発売日、授業が終るとすぐに本屋に飛び込んだ。お目当ての雑誌は平積みしてあった。 黒い表紙に蝶タイの白いウサギの横顔。「PLAYBOY」という金文字のロゴが眩しい。 中味も見ずに、一番上を避け、誰も立ち読みしていないだろう上から2冊目を手に取る。(小っちぇっ!) レジに向かい、どきどきしながらその雑誌を手渡す。おばちゃんが制服姿の私を一瞥する。 ま、良いかね、という感じで私の差し出した千円札を受け取る。「やったぁ!」

待ちに待った創刊号だった。田舎町の高校生の私にとって、東京は遠く、 アメリカに至っては自分が訪れる場所として“想定外”の遠い国だった。 中学時代に英語の先生から「リーダーズ・ダイジェスト」のバックナンバーを大量にもらった。 本国版の記事の直訳的な記事が気に入り、貪り読んだ。 日本の雑誌と違う、乾いた大人の香りがした。 田舎の少年が初めて触れた直輸入のアメリカの文化だった。

そして、「PLAYBOY」の創刊。各ページの高いクオリティにくらくらした。全てがぴかぴかだった。 斬新な写真の使い方、レイアウト、デザイン、イラストにわくわくした。 センター後半に記事が飛ぶページ・ネーションが独特だった。ロング・インタビューが新鮮だった。 もちろんヌード・グラビアのページは眺めるだけで卒倒しそうだった。 ・・・こんな完璧なスタイルの女性がこの世に存在するんだぁ?。・・・初心(うぶ)だった。

創刊号で打ちのめされた後、愛読者となった。バニーの横顔を基本にした表紙自体も楽しみだった。 開高健の「オーパ!」、生島治郎翻訳の「ザ・ファイト」などの読み物も楽しみなビジュアル誌だった。 その「PLAYBOY」が創刊30周年だという。・・・30年、いつの間にかアメリカは近くなり、 「PLAYBOY」は手にとることもなくなり、遠くなってしまった。 そして、この記念号。久しぶりに、やられた! 中味も見ず、平積みの上から2冊目を手に取り、レジのお姉さんに渡す、 相変わらず“小っちぇ”私だった。

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2005年6月 6日 (月)

さよならサギサワ「大統領のクリスマス・ツリー」

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家の書架を何気なく見ていたら、中島らもの隣りに彼女の本が並んでいた。 ん~、接点もなさそうだし、あっちで仲良くやっていそうもないけど、 二人とも酒好きということで、会話がはずんだり・・・しないだろうなぁ。 でも、その偶然がちょっと奇妙で楽しかった。私の好きな現役の作家が何人かこの世を去った。 ・・・中島らも、ちょっと前に景山民夫、そして、鷺沢萠。 彼らが創造する新しい世界が生まれなくなってしまう、 これ以上新しい作品が読めない、ということが淋しい。

「大統領のクリスマス・ツリー」という作品で鷺沢萠を知った。 大学在学中のデビュー以降、溢れる自信とそれ以上の不安を一緒に持っているような、 危なっかしく、それでも愛おしい、そんな気持を初期の頃の彼女の作品にずっと感じていた。 ・・・そんな彼女の作品でワシントンD.C.に、大統領のクリスマスツリーがあると知った。

NYC駐在となった友人夫妻を訪ねた冬のテーマは、クリスマスツリーを訪ねる旅、だった。 ロックフェラーのツリーも、フォーシーズンズのツリーも、コンドミニアムの無名のツリーも、 そしてもちろん、ホワイトハウスのツリーも、訪ねた。 「あなたは私のクリスマスツリーだったのよ」 ・・・切ない別れに向かって展開する、その作品の印象的な主人公のセリフ。 え、これで終ってしまうんだ?という予想しなかった展開に、心が軋む。 でも、その後にやって来る爽快感。主人公にエールを送りたくなるエンディング。

周囲から見たら、クリスマス一色の街の雰囲気に浮かれ、記念写真を撮る日本人夫婦だったと思う。 読んだその本のストーリーを忘れてしまったように、 大統領のクリスマスツリーの前でも脳天気な夫婦はシャッターを押した。 でも、お互いに辛い別れを経験し、終わりのない物語はないと知っているからこそ、 いられる限りいつも一緒にいるんだ、ということも知っている。 「・・・でも普通、別れのシーンが印象的だったからって、夫婦揃って観に行かないでしょ?」 感情移入せずに本を読む、妻が言った。・・・うぅむ。

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2005年5月26日 (木)

僕らの声を聴け「村上春樹」の作品群

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「ノルウェイの森」までは、彼の作品が好きなだけではなく、 彼の作品を好きだとちょっと誇らしげに言っていた。 なのに「ノルウェイ・・・」以降は、そう言うのがちょっと気恥ずかしい。 もしかしたら、自分だけが知っている気に入りの作家、売れて欲しくない、 余りメジャーになって欲しくなかった作家だったのかもしれない。勝手だけど。

私のベストは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」。妻のベストは「1973年のピンボール」。 そして二人とも「羊をめぐる冒険」が好きだし、「羊男」も、「いるかホテル」も気に入っている。 彼に影響され、フィッツジェラルドも、レイモンド・カーヴァーも、マイケル・ギルモアまで読んだ。 「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」を読み、アイラ島のシングル・モルトが好きになった。 もちろん、「村上朝日堂ホームページ」もチェックしたし、 丁稚のいがらしさんの故郷、村上市を訪ねたりもしたのだ。

でも、なぜか今、大声で村上春樹が好きと言えない。「ねじまき鳥・・・」も刊行を楽しみにしていたし、 「アンダーグラウンド」や「海辺のカフカ」の酷評にも絶え、「アフターダーク」を読み脱力しても、 今でもこっそり宣言する。私も妻も、村上春樹が大好きなのだ。

なのになぜ、今、こんなヘビーな読者も、村上春樹を好きだと声を大にして言えないのだろう。 「遠い太鼓」も、「地球のはぐれ方」さえも、きちんと読んで楽しんでいるのに。 んー、なぜだろう、こんなに好きなのに。何を書いてもたいがいは暖かく受け入れ、買ってしまうのに。 安西水丸さんが描く「似顔絵イラストの丸顔」を思い出しながら。

僕は、地下鉄銀座線の外苑前駅を通るたびに思うのだ。この地下に「やみくろ」がいて、 もぐらの穴のような迷路に、今もまだ「僕」が彷徨っているかもしれないと。

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2005年5月20日 (金)

不思議の国の老人力「尾辻克彦」

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路上観察学会を勝手に立ち上げ「トマソン」と命名した正体・目的不明な物体を発見・観察・撮影したり、 「老人力」という脱力パワーを発揮したり、中古カメラに凝ってみたり、新解さんを追いかけてみたり、 古くはアートとして創作した「一万円」によって偽造事件として逮捕されたり、 その人は、・・・ともかく多方面に足を踏み入れる、好奇心の塊だ。

その人と初めて出会ったのは(実際はお会いしてないが)、 尾辻克彦という名前で「肌ざわり」という小説を出版した時だった。 何かの書評で、「妄想現実小説」と呼ばれたのが目に留まり、思わず買ってしまった。 ストーリーが日常からどんどん遊離して、妄想の世界に入ってしまうのだけど、 なぜか現実と密接にくっついている、そんな小説だった。

その後立て続けに発表した小説を読み漁る内に、人物そのものにも興味を持ち始めた。 すると、実に愛すべき「変な人」だということが分かるのだ。 「父が消えた」という作品で芥川賞を取ってしまったが、 その後小説は余り出さず、もっぱら赤瀬川原平という本名で、 好奇心の趣くままにいろんな世界に手を出している。

1999年には「太陽」で特集まで組まれ、「赤瀬川原平の謎 優柔不断の人」とまで称されている。 ・・・最大の賛辞に違いない。その記事の中には自宅の屋根をニラで覆ってしまう「ニラハウス」の記載もある。 知れば知るほど奥が深く、到底追いつけない脱力系アーティスト・パワー。恐るべし「原平ちゃん」。

それにしても、その後小説は書かれないのだろうか。 その一貫して散漫かつ優柔不断な好奇心と、類稀な大人の遊び心を敬愛してもいるが、 何より私にとっては愛すべき作家「尾辻克彦」でもあるのだ。

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2005年5月 4日 (水)

ボストンのビール「スペンサー・シリーズ」

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マサチューセッツ州ボストンにスペンサーという私立探偵がいる。 レッドソックスが好きで、ドーナツが好きで、スーズを愛し、ボストンを愛し、リッツのバーで飲む サミュエル・アダムスが気に入っている。

スペンサーに会いに行くために、ある年の夏、ボストンを訪れた。手には「スペンサーのボストン」。 暑い夏だった。彼の事務所があるバックベイのF.A.O.シュワルツの向かいのビルを訪ねた。 残念ながら留守だったので街を歩いてみた。 パブリック・ガーデンの白鳥のボートも、チャールズ河のヨットも、河畔を走るランナーも、 初めて来た街なのに奇妙な親しみがあった。つくづく良い街だった。

スペンサーは、ロバート・B・パーカーが30年以上に渡って書きつづける、 ハードボイルド小説の主人公だ。80年代前半に初めて第7作「儀式」を手に入れた後、 しばらく本棚に積んであった。友人から「今、いちばん面白い!」と自分の読みかけを 無理やりプレゼントされたにもかかわらず、なぜかしばらく読む気持が起きなかったのだ。

そして何年か後に、あるきっかけで1冊読み終えた後は、全ての著作を読んだ。 スペンサー・シリーズ、ジェッシィ・ストーン・シリーズなど、数えてみたら我家の本棚には 47冊が収まっている。たぶん日本で買える最新作までの全てだ。

実在しない人物が住む街を訪れる。実在しないのに、街のあちこちに気配を感じる。 自分でも不思議に思いながら、そんな気持を自然に受け入れられる。 「スペンサーのボストン」は、著者が登場人物たちと一緒に街を紹介する、 スペンサー・ファンのためのボストン・ガイド。 パブリック・ガーデンを散策しながら、リッツのバーでサミュエル・アダムスを一杯やりながら、 スペンサーのセリフを思い出しながら、眺めて楽しい1冊だ。

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